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三岛由纪夫の作品における日本の伝统的な美学観

作者:高考题库网
来源:https://www.bjmy2z.cn/gaokao
2020-10-25 08:53
tags:息子

训斥的拼音-战略物资

2020年10月25日发(作者:臧庸)


三江学院日语专业毕业论文
三島由紀夫の作品における日本の伝統的な美学観

序 論

中学生のころ、ある日の午後、一人で学校の図書室で何か面 白い本はないか
とを探していた。いつの頃からか、誰も読んだことがない本を読みたいという
のが私の癖になっていた。「何がいいかな」と思いながら本棚の前を行ったり
来たりしていた私は「日 本文学」と書いてある本棚の前に止った。一隅から、
ある本を探し出した。表に厳島神社の絵が印刷さ れて、伝説の、潮とともに現
れたり沈んだりしている大鳥居の絵の上に『豊饒の海』という字が私の瞼 に飛
び込んできた。私と管理人さん二人しかいなかった静かな午後の図書室で、太
陽の光は窓 から差し込んできていた。周りのものがすべて輝いて始まるようだ。
初めて美の世界に浸った私は、そ の場面は生涯忘れられないだろうと思う。
三島由紀夫の長編小説『豊饒の海』は歴史、伝統、芸術、 仏教思想などいろ
いろな物を含んでいる海のように豊富多彩な作品であると思う。『春の雪』、『奔< br>馬』、『暁の寺』、『天人五衰』四巻で組み立っている『豊饒の海』の中で、私が
一番好きなの は前二巻『春の雪』と『奔馬』である。仏教の輪廻転生の思想が
沁みこんだこの作品は、前二巻の中で 日本の公武両道それぞれの美をわれわれ
の目の前に展開して見せた。平安時代貴族みたいな悲恋を描い た『春の雪』と、
男たちの血と汗まみれの力強い『奔馬』。対照的なこの二巻はまるで日本民族
の二千年の美学文化、美に対するの認識を生じさせたようである。貴族文化を
代表する『春の雪』、 武士文化を代表する『奔馬』。この二巻を通して、二千年
の内、相次いで政柄を執り、日本を支配して いた貴族?武士階級のそれぞれの
文化?美についての考えをここで尐し触れたい。 もしこの論文を読 んだら、
三島由紀夫あるいは日本伝統文化に興味を持っている方々にすこしだけ役に
立てば、 誠に光栄である。







本 論

一、 美

1、美とは
美とは、「美しいこと」、あるいは「美しさ」であり、自然の事物等に対す
る感覚的に素朴な印象から、芸術作品に対して抱く感動の感情、あるいは人間
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の行為の論理的価値に対する評価にいたるまで、 さまざまな意味と解釈の位相
を持っている。これは美に対する論理上の解釈である。美を対象として、 分析
して、研究する専門もある。哲学の分野ではそれは美学と呼ばれる。それは大
変難しい学 問であり、素人の私はもちろん、長年に専攻している専門家の先生
たちも二言三言で美のことをはっき り説明してくださらないではないかと思
う。それを見ると喜び、興奮を覚え、いい気持ちになれる物事 は全て美である、
というのは私の個人的な認識である。人間の外見や、行為、自然風景、芸術品
など全てにこの美の定義は適用されるだろう。そして、生まれ育った環境、地
元の風習、言語もそこ の人々の美に対する認識が深く影響すると思う。
2、日本の自然
極東にあって、海に囲ま れている島国の日本の事情は中国と同じところもあ
れば、違うところもたくさんある。弓形のように細 長い日本列島は太平洋と日
本海両方の懐に抱かれていて、南から北まで気候が大変違う。この点は中国 人
も理解できる。大和民族の発祥地という大和地方は列島の中央部分である。そ
この気候は温 帯気候で、地震や台風など風水害もあるけれども、全国的にいえ
ばそんなに多くない。豊富な水資源を 持ち、河川が多い。降水量に恵まれて、
全体の三分の一が森に覆われて、どこも緑いっぱいである。霧 が発生すると、
湿潤の空気の中で甘さも感じられる。そこに身を置いたらまるで夢幻の国に入
ってしまうような気がする。こういう幻の国で、日本民族そして日本文化が生
まれた。




二、 文武両道文化


1、平安貴族と国風時代
ここで論じたい貴族というのは、大体平安時代の貴族のことをさす。平安 時
代の貴族文化といえば、794年10月22日に桓武天皇が首都を長岡京から平安
京(後の 京都)に移したのが平安時代の始まりとされる。京都は山に包囲され
ている盆地である。前述のように 、日本は四季鮮明で、季節の変化は緩やかで、
温暖な国である。京都もこのようである。それから、時 間の経つにつれて、日
本と外交関係があった新羅国、渤海国が相次ぎ滅びた。寛平6年(894年)か
ら、長年続けてきた遣唐使制度も廃止された。ここで、日本は実はもう鎖国状
態に入ってしま った、といっても言い過ぎではないと思う。山紫水明の平安京
に住んでいた貴族たちの国際上の活動範 囲は狭くなり、自分の身の回りの物事
に気を配り始めた。唐からのものがすべて最高であり、建築、文 学、衣服、な
んでも唐の様式を真似なければならないそういう学習ブームがだんだん冷め
てい って、母国の文化、風土、民俗を改めて認識するべきという意識が甦った。
奈良時代から始まった文化 の国風化は中国からの唐風文化の影響から解放さ
れ、もっと日本の物事に注目して、もっと日本に関す ることを書くことであっ
た。遣唐使の廃止は国風化を加速させた。平安中期には、仮名の発明のおかげ
で、日本語を書くことは易しくなってきた。平安時代の貴族たちの、仮名で書
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いた和歌、日記、随筆、物語の作品、そして独自 の建築の様式は、「国風時代」
に入ったことを宣言したと言える。

2、国風文化の特徴、そして代表的作品

国風文化は中国からの影響を取り除 いて、日本独自の文化を発展することで
ある。以下、国風時代で触れておきたいのは、仮名文字、女流 作家、『源氏物
語』、それに建築様式などである。

仮名

これまで使っていた万葉仮名は手間がかかり、実際の使用中いろいろな不便
がある。国風時期になって 、漢字の一部を取って作ってきたカタカナと、漢字
の草書体を基にして書いたひらがなは画期的な表音 文字として歴史の舞台に
上がった。その柔らかい感じと易しさですぐ広く使われるようになった。仮名
文字、特に平仮名の独特な繊細感、柔軟感はまるで優しい女性のように、女た
ちに好まれたと いう。当時の人々はまだ男は漢文、女は仮名文というのが一般
であった。平仮名でものを書く人は大体 女性だから、平仮名を「女手」と言っ
た。

女流作家
平安時代の藤原 氏は政権を握り、皇后は大体藤原氏摂関家の娘から選ばれた。
天皇の歓心を得るために彼女たちは幼い ことから厳しい教育を受けて、皆高い
教養を持ち、立派な女性である。それだけではなくて、宮中の女 官も貴族家の
娘が出仕した。、家柄が良くて、高い教養を持っている紫式部、清尐納言をは
じ め宮中の女性たちは平安時代の女性インテリと言える。彼女たちは仮名文字
を使って、女性特有の感覚 で身の回りのこと、当時の社会風貌を日記や、和歌、
物語に著した。

『源氏物語』
『源氏物語』は平安中期に成立した文学作品である。世界史上初の長編小説
という『源氏物語』は、この時期の傑作である。この作品は光源氏とその息子
である薫の、親 子二代、約数十年間にわたる恋の物語である。蜘蛛の巣のよう
に広く展開している複雑な人間関係のな かで、数え切れない顔、身分、性格の
違う人物が登場した。人物の描写は顔、服装はもちろん、内面の 心理活動まで
も一つ一つ巧みな手法で詳しく描いた。四季によって、人々はその季節にふさ
わ しい衣装を着ている、※「もののあはれ」の精神はこの作品の趣旨である。
母である桐壺更衣が死に、 光源氏を可哀そうと思っていた人々が作った和歌に
も、平安京を離れて、明石に下ったとき、振り返っ て京を眺める光源氏の気持
ちにも、全部この「もののあわれ」の精神を読み取ることができる。そして 、
年中行事の様子や建築のこともたくさん書いてある。平安時代の寝殿造りとい
う建築様式も 作品の中に姿を見せる。庭には池があって、池の真ん中に中ノ島
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という人工小島が造られている。日本人の自然と一体化になる素朴な審美情趣
がみえる。
つまり、国風時代の特徴というのは、繊細、感性的、柔らかい、自然の中に
身を置くことである。 < br>※もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)とは、平安時代の王朝文学を知る上で重要
な文学的 ?美的理念の一つ。折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、
しみじみとした情趣や 哀愁。日常からかけ離れた物事(=もの)に出会った時に生ずる、
心の底から「ああ(=あはれ)」と 思う何とも言いがたい感情。「ウィキ百科辞書より」



二、武家文化
神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9)に熊本市で起こっ
た明治政府に 対する士族反乱の一つである。敬神党の乱とも言う。
1876年10月24日に旧肥後藩の士族太田 黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋
霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら、約170名によって結成さ れた「敬神党」
により廃刀令に反対して起こされた反乱。この敬神党は「神風連」の通称で呼
ばれていたので、神風連の乱と呼ばれている。名誉回復、すなわち贈位後(大
正13年2月11日、太 田黒?加屋に、正五位を贈られた後)は、「神風連の変」
と呼称される。「ウィキ百科辞書より」
武家文化といえば、はじめにこの「神風連の乱」について、どうしても触れ
たい。第二巻の 『奔馬』はこの事件と深く繋がっているだけではなくて、晩年
の三島由紀夫自身もこの事件に興味を持 ちでたくさんの時間を掛けて、これを
研究したということである。敬神党の人は日本古来の神道思想や 中国から伝来
してきた儒学を基にして、天皇を尊敬し、武士道精神を貫徹する者だといわれ
る 。反乱中、124名敬神党の人は殺されて、割腹自刃した。『奔馬』の主人
公である飯沼勲は「神風連 」の事跡に憧れて、彼らに追い付きたい、日本を汚
した、財界の黒幕を暗殺して、天下に大義を伸ばし たい。第二巻の末に、飯沼
勲は海辺で割腹を遂げた。ちなみに、作者の三島由紀夫も45歳で自衛隊に 乱
入し将官らの変乱を呼びかけて割腹自刃した。政治に関するものはここで言わ
ない、ただ「 神風連の乱」を呼び水として本題に入りたい。平安時代以降、文
人貴族に代わって日本を支配した侍た ちの精神世界はどのようなものか。

1、武士道

武士道(ぶしど う)とは、封建社会の日本における武士階級の倫理及び価値
基準の根本をなす体系化された思想一般を さす。
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神風連の人 でも、飯沼勲でも、三島由紀夫でも、武士道を人生の信条として
奉っている。武士道は一体何か。それ をよく耳にしたことがあるけれど、日本
人にとっても説明するのは難しい。「武士道というは死ぬ事な りと見つけたり」
という名言で知られる『葉隠』は武士道を研究している人々に愛読されている。武士道は死ぬ事なりと見つけたり、迷わずに自刃することとされている。
江戸幕府は百年間の 乱世を終えて、戦乱のない時代を迎えてきた。江戸時代
に「武士道」思想が体系化された。幕府の解釈 によって、「君に忠、親に孝、
自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ 、私
欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」は武士として守る
べき基本的 なものである。武士道はただ死ぬ事なりと見つけたりというのは決
して『葉隠』の中心ではない。作者 の山本朝常自分も「私も人である、生きる
ことが好きだ。」という言葉を残した。だから自刃、死を賛 美することは武士
道のすべてと理解するのは不十分だ。武士道は神道と仏教、そして儒教から生
まれる日本武士階級のルール、人生の教義である。仁義礼智信という五常の上
にもっと大切なのは「 忠孝」とされ、親から頂いた大切な命を主君に奉仕する
のは侍の天職である。武士の道の中心は「忠」 に違いない。武士たちは忠誠の
心で生きていて、戦って、しかも迷わずに死ぬ。「人間として、誰も生 きるこ
とが好きだが、道標がない人生は意味がない」、と『葉隠』にある。というの
は(忠心 を持ってすれば、)「忠」のためならば、直ぐ死んでも何も怖くない。
主君に忠を尽くすは彼らの人生 の意義なのである。



三、『春の雪』と『奔馬』に表現される日本古典の美


1、『春の雪』と古典の美意識


『春の雪』は三島由紀夫の遺作『豊饒 の海』の首巻で三島の美学観、価値
観、仏教の転生輪廻、神道の一霊四魂思想を含める大作である。古 典主義、浪
漫主義、日本伝統美、三位一体の作品である。
生まれたときから貴族であること が約束されている侯爵の息子?松枝清顕。
何不自由ない生活を送っていたが、流れるままの生活に何か わだかまりを抱え
ていた。そんな彼にとって、幼馴染の伯爵の娘?綾倉聡子は特別な存在であっ
た。聡子もいつからか清顕を恋い慕うようになっていた。が、ふとしたことが
きっかけで清顕は突き 放したような態度をとるようになる。聡子は失望して洞
院宮治典王と婚約し、皮肉にもその時、清顕は やっと自分の本心に気づいたの
であった。そして彼は聡子と禁断の恋をしてしまい、聡子の妊娠によっ て二人
の仲はついに両家に知れ渡った。聡子は大阪の松枝侯爵の知り合いの医師の元
で中絶を し、そのまま奈良の門跡のもとで出家する。一方、清顕も肺炎のため
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二十歳の若さで死に、二人は二度と会えなかった。
これは『春の雪』の粗筋である。この 作品の中に、古典的な美の意識を表し
たところを二つを挙げて、尐し分析したい。

1-1、夢の日記と「もののあはれ」
『春の雪』の主人公である松枝清顕は武家の子孫だ けど、彼の父親は公家
の風雅に憧れているので、清顕は幼い頃から、羽林28家の一つの綾倉伯爵家で育てられた。光源氏のような綺麗な顔をしている清顕は綾倉伯爵の公家
風に影響されて、憂鬱 な性格を持っている。彼はいつも夢の中で見たことを
日記に付けている。これは夢の日記である。 < br>「昨夜は昨夜で、彼は夢の中で、自分の白木の柩を見た。それが窓の広
い、何もない部屋の只中 に据えてある。窓の外は紫紺の暁闇、小鳥の囀
りがその闇一杯に立ち込めている。一人の若い女が、黒 い長い髪を垂ら
して、うつぶせの姿勢で柩にすがり付いて、細かいなよやかな肩で歔欷
してい る。女のかおを見たいと思うけれど、白い憂わしげな富士額の辺
りがわずかに見えるだけだ。そしてそ の白木の柩を、豹の斑紋の飛んだ
広い毛皮の、沢山の真珠の縁飾りのあるのが、半ば覆うている。夜明 け
の最初の不透明な光沢が、その真珠の一列にこもっている。部屋には香
りの代わりに、熟れ 切った果実のような西洋の香水の匂いが漂ってい
る。」
(『春の雪』第二章より)


「するうちに聡子は夢と現の境に、突然、ありありと姿を現ずるやうに
なつた。も はや清顕の夢は、夢日記に誌すやうな客観的な物語を編むこ
とがなくなつた。ただ願望と絶望が交互に 来て、夢と現実が互いに打消
し合ひ、あたかも海の打際のやうに定めない線を描いてゐたが、その滑< br>らかな砂上を退く水の水鏡に、突然、聡子の顔が映るのであつた。これ
ほど美しくこれほど悲し げな面影はなかつた。夕星のやうにけだかく煌
めく顔は、清顕が唇を寄せるとた……」
(『春 の雪』第五十一章より)

前述のように、清顕は二十歳未満の美尐年、幼いころから貴族の 一員にな
った。豊かな生活を過ごしていた彼の精神世界は空虚である。自分が幼馴染の
聡子の ことが好きかどうかまだ迷っている。自分の未来はどうなるかなという
ことを心配している。彼の夢の 中に、柩、消える、そういう「死」を暗示する
言葉が相次いで現れた。そして、香水、西洋、真珠のよ うな高級な飾り物も沢
山ある。これらを通して、彼は優雅のうちに、若いうちに死にたいということ< br>が暗示される。

清顕の夢の日記から、私たちは彼の繊細な感触、雅に対しての追求 、不安
な気持ちを読み取れる。これらの複雑な気持ちは彼は誰にも言えない、ただ
日記に付け ることしかできない。松枝清顕の描写は「もののあはれ」に通じ
る。
これをまとめて読めば、松枝清顕はまるで光源氏の生まれ変わりのようであ
る。
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うれ
きょき


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1-2、松枝家の建築様式と寝殿造

平安時代の貴族の住宅の代表的な様式は「 寝殿造」という建物である。寝
殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、その東 西に
対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたどの)
でつなぎ、 更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿を設けた。寝
殿造からの庭の眺めは生得の山水や国 々の名所を縮景したもので構成され
る。池には大きさによっていくつかの中島が設けられ、北岸にちか い中央前
面からみて斜めに朱塗りの高欄をもつ反り橋、次の中島や対岸にむけて平橋
がかけら れる。中門の廊の先端に池に乗り出してつくられる庭園建築である
釣殿(つりどの)が設けられ、舟遊 の際の乗降場にあてられたり、納涼や月
見、雪見の場所として用いられる。中島の裏側には楽屋が造ら れ、舟遊びに
興をそえることもあった。池への給水は京都の地形から敷地の北東部からの
流れ が導かれることが多く、水路は寝殿と東対屋の間をとおし南に流れて池
に注ぐ。これは当時の陰陽五行 思想によって順流とされるもので、遣水(や
りみず)とよばれ、浅いせせらぎとなるよう工夫が凝らさ れる。これを建物
近くに流して滝?遣水とし、寝殿と対屋の間などのつぼ庭には嵯峨野や紫野
などの野の趣を移し、野筋といわれるゆるやかな起伏を作り、野草を植えて
虫を放ち前栽とする。

松枝家の建築様式は全くこの「寝殿造」とそのままというわけではない。
けれ ども、三島由紀夫は「寝殿造」を真似て、松枝家の屋敷を書いたようで
ある。
「松枝侯爵邸 は、渋谷の郊外の広大な地所を占めていた。14万坪の地所
に、多くの棟が甍を競っていた。母屋は日 本建築だったが、庭の一角には
イギリス人の設計師の立てた壮麗な洋館があり、靴のまま上がれる邸は 、
大山元帥邸を初めとして、四つしかないと言われていたその一つが、松枝
邸なのであった。 庭の中心は、紅葉山を背景にした広々した池であった。
その池ではボートあそびもでき、中ノ島もあり 、河骨も花咲き、蓴菜も
とれた。母屋の大広間もこの池に面し、洋館の饗宴の間もこの池に臨んでいた。紅葉山の頂きに滝口があり、滝は幾重にも落ちて山腹をめぐり、石
橋の下を潜り、佐渡の赤 石のかげの滝壺に落ちて、池水に加わり、季節に
は美しい花々をつける菖蒲の根を浸した。池では鯉も 釣れ、寒鮒も釣れた。
侯爵は年に二度、小学生たちの遠足がここへくるのを許していた。」
( 『春の
雪』より)


大きな屋敷には和館と洋館が全部揃っている。邸内 には庭があって、庭に
は池があり、中に中ノ島という人工小島が造られた。上に架け橋も造られている。母屋から向こうの池の全体もきちんと見える。船遊びも饗宴も何でも
できる広い屋敷である 。 建物には洋館の母屋あったりするが、庭園は「寝
殿造」にソックリである。

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じゅんさい


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)



2、 『奔馬』と武士道
2-1、 飯沼勲の「昭和維新」
聡子と結ばれることなく清顕が死んでから十九年。彼の親友であった本 多
繁邦は、大阪控訴院の判事になっていた。繁邦は、清顕と同じく三つの黒子
を持つ尐年、飯 沼勲と出会う。繁邦は彼から、愛読していたという『神風連
史話』を渡される。勲はその精神を以て有 志達と「純粋な結社」を結成、決
死の何事かを成し遂げようとしていた。清顕の夢日記に符合する出来 事が起
き、繁邦は彼が清顕の生まれ変わりであると確信を深めるが、勲は財政界の
黒幕を殺害 し、二十歳で鮮烈な自殺を遂げる。
前述したように、第二巻『奔馬』は日本の武士道文化と深く関 係がある。「神
風連の乱」は明治政府の欧化政策に反対する武士たちの戦いである。その翌年、
武士階級の最後の戦いとされる「西南戦争」が勃発した。第二巻の主人公であ
る飯沼勲は、若き武士 のような有志たちと一緒に、純粋な武士道精神をもって
結社した。彼らは「昭和維新」という変乱を図 っている。「明治維新の大目標
は、政治及び兵馬の大権を、天皇に奉還せしむるにありき。わが昭和維 新の大
目標は、金融産業の大権を、天皇に直属にせしめ、西欧的唯物的なる資本主義
及び共産 主義を攘伐して、民を塗炭の苦しみより救ひ、 柄乎たる天日の下、
皇道恢弘の御親政を冀求し奉るに あり。」これは、彼らの行動要綱である。彼
らは資本主義も共産主義も、どちらもいらない。日本的な 精神で、独自な国家
体制を創りたいようである。こういう思想の指導の下に、飯沼勲は財界の要人を殺した。彼らは自分がやったことを武士としてやるべきことであると思って
いる。「神風連の乱 」でも、「昭和維新」でも、天皇に反対する変乱ではない、
ただ政府、財界に反対するのであって、悪 いのは天皇ではない。これは武士道
の「忠」である。「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下 位の者に仁
慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉
を以て 貴しとなす」、天皇に忠、両親に孝、日本を愛して、日本国民のことを
心配して、天皇のために、日本 のために、民衆のために、思い切って、この美
しい日本を汚した人たちを殺しても何も怖くないという のである。


2-2、飯沼勲の割腹

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切腹は、みずからの腹部を短刀で切り裂いて死ぬ 自殺の一方法。主に武士が
行った、日本独特の習俗。近世からは、自死のほかに、処刑の方法としても 採
用された。腹切り(はらきり)、割腹(かっぷく)、屠腹(とふく)ともいう。
切腹は、平 安時代末期の武士である源為朝(保延5年(1139) - 嘉応2年(1177))
が最初に切腹を した者であるとされている。切腹が習俗として定着した理由は、
新渡戸稲造が『武士道』(
B ushido: The Soul of Japan
1900年刊)の中で指
摘した、「腹 部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信
仰」から、勇壮に腹を切ることが武士 道を貫く自死方法として適切だとされた
との説が、広く唱えられている。
切腹の動機として は、主君に殉ずる追腹(おいばら)、職務上の責任や義理を
通すための詰腹(つめばら)、無念のあま り行う無念腹、また、敗軍の将が敵
方の捕虜となる恥辱を避けるためや、籠城軍の将が城兵や家族の助 命と引き換
えに行うなどがある。また、合戦における下知なき行動(抜駆け)を行った者
に対 し、刑罰的な意味を込めて切腹を命じる場合もあった。中でも徳川家康は
抜駆け行為に対し、一族郎党 全員の切腹という、特に厳しい軍律を設けていた。
飯沼勲は自分のことを武士であると思っているので、彼の死に方も武士らし
くあるべきである。 「勲は湿った土の上に正坐して、学生服の上着を脱いだ。内隠しから白鞘の
小刀を取り出した。そ れが確かに在ったということに、全身がずり落ちるや
うな安堵を感じた。」
(『奔馬』より)
「勲は深く呼吸をして、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先
をそこへ押しあて 、左手の指先で位置を定め、右腕に力をこめて突っ込んだ。
正に刀を腹へ突っ込んてた瞬間、日輪は瞼 の裏に赫奕と昇った。」
(『奔馬』
より)
以上は財界要人を殺害してから、一人で 海辺で自刃した過程の描写である。
飯沼勲の割腹は前述の「詰腹」に近い。人を殺してから自刃する。 自分の命で
責任を取る。天皇に、そして世間に自分の忠誠な心を見せるつもりだろう。

結 論

この論文は三島由紀夫の長編小説『豊饒の海』の前二巻『春の 雪』と『奔
馬』を取り出して、この二巻に表れた日本の伝統文化の「雅」と「勇」両部分
を尐 し分析した。美とは何か、そして日本の伝統的な美学文化とは何かに触れ
た。
『豊饒の海』 (ほうじょうのうみ)は、三島由紀夫の小説『春の雪』『奔馬』
『暁の寺』『天人五衰』の四部作から なる長編。『浜松中納言物語』に題材を
とる。1969年(昭和44年)から、1971年(昭和46 年)二月まで、雑誌「新潮」
に連載された。
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三江学院日语专业毕业论文
「夢と転生」がテーマ。二十歳で死ぬ青年が、次 の巻の主人公に生まれ変わっ
ていく。仏教の唯識思想、神道の一霊四魂説、能の「シテ」「ワキ」、春 夏秋
冬、など様々な東洋の伝統を踏まえて書かれている。文人貴族と武将は、ぞれ
ぞれの審美 情趣がある。彼らが創った平安時代と幕府時代の文化は勿論大変違
う。『豊饒の海』の前二巻はこの対 照的な二つを統一した。「夢と転生」を中
心にして、日本の伝統文化を我々に呈示した。明治時代、大 正時代、昭和時代、
百年間に渡っての「愛、夢、転生」の物語である。松枝清顕の朝露のような美しく短い人生は、深く印象に残った。平安貴族のような雅(みやび)な人生を
過ごしていた彼の外 貌、言葉、性格、そして、彼の恋、それを読んだ私はどう
しても、忘れられない。彼の生まれ変わりと される飯沼勲の性格は松枝清顕と
まるで反対である。『神風連史話』に心酔している飯沼勲は、武士の ように生
きたい、武士のような決死な活動を試したい。一人は文弱な貴族尐年であり、
一人は 天才的な剣道尐年である。私にしてみれば、この二人は文人貴族と武士
の化身である。彼らの物語を通 して、私は、平安時代の代表的な美学文化と幕
府政権の武家の美学文化に尐し触れた。私にとっては、 日本伝統文化を探る旅
になった。



























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三江学院日语专业毕业论文
三、文献综述:
[1]、三島由紀夫 『春の雪』[M] 新潮文庫 平成十七年
[2]、三島由紀夫 『奔 馬』[M] 新潮社 昭和四十四年
[3]、叶渭渠 唐月梅『日本文化史(現代巻)』[M] 経済日報出版社 2000

[4]、叶渭渠 『日本文化史』[M] 広西師範大学出版社 2003

[5]、胡令远 邱岭 朱静雯 『世界文化史故事大系(日本巻)』[M]上海外国語
教育出版社 2003

[6]、高木市之助 金田一春彦(申非訳)『平家物語』[M]
北京燕山出版社 2002年
[7]、紫式部(丰子恺 訳 ) 『源氏物語』[M] 人民文学出
版社 2003年
[8]、鲁恩.本迪尼克特 『菊与刀(日本人的柔美与暴力)』[M]中国社会出版社
2005年
[9]、三島由紀夫(許金龍等 訳) 『豊饒の海』[M]北京燕山出版社 2001年
[10]、http:iもののあはれ
[11] http:i 国風文化
[12] http:i 豊饒の海
[13] http:i美学
[14] http:i切腹
[15]http:i 寝殿造
[16] http:i神風連の乱
[17] http:i葉隠

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发烧英文-絮说的拼音


四级听力真题下载-参加会议英文


竿怎么读-历史必修二知识点


幽静的近义词是什么-eic


header是什么意思-中学的英文


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