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三省堂
大辞林
あしかが
-
よしあき
【足利義昭】
(1537-1597)
室町幕府<
/p>
一
五代将軍
(
在
職
1568-1573
)。義晴の子
。
1568
年
、
織田信長
に擁
されて
将軍
となる。のち
不和
を生じ
信長
を討とうとしたが、
73
年京都<
/p>
を追われ、
幕府
は
滅亡
した。
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戦国武将覚書
足利義昭(あしかが
よしあき)
1537
~
1597
○義秋
覚慶
左馬頭
参議
権大納言
征夷大将軍
◇父:
足利義晴
養父
:
近衛稙家
子:
一色
義喬、
足利義尋
p>
、
永山
久
兵衛義在
将軍家足利氏一族
。
幼少
の頃、
近衛家
の
猶子
となって
大和<
/p>
?
興福寺一乗院
へ入る。
1565
年松永久秀
らに
実兄
の
将軍
義輝を
殺害
され、
義昭自身
も
幽閉
されるが、
細川藤
孝
p>
らの
手引き
で
近江
?
和田惟政
の下に
逃れ
、さらに
越前
?
朝倉義景
を頼る。
1568
年尾
張
?
織田信長
に担がれ
上洛
し、
室町幕府
15
代将
軍に就くが、
傀儡
に過ぎず、
信長
と
不
仲
になる。
御内書
を
濫発
して反
信長勢
力
の
挙兵
を
再
三
行うが、
1573
年
には
信長
に
京
都
を逐われ、後に
安芸
?
p>
毛利氏
に身を
寄せ
てからも、反
信長勢力
の
決起
を
謀り続け
た。
豊臣秀
吉
による
天下統一
後は、
山城
?
槇島城
に
1
万
石を得た。
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ウィキペディア
足利義昭
出典
:
フリー百科事典『ウィキペデ
ィア(
Wikipedia
)』
(2010/06/24 14:18 UTC
版
)
凡例
足利義昭
時代
戦国時代
-
安土桃山時代
生誕
天文
6
年
11
月
13
日
(
1537
年
12
月
15
日
)
死没
慶長
2
年
8<
/p>
月
28
日
(
p>
1597
年
10
月
9
日
)
改名
覚慶(法名)、義秋、義昭、昌山
別名
鞆公方(
渾名
)
戒名
霊陽院昌山道休
墓所
京都府
の等持院
官位
従五位下
?
左馬頭
、
参議
?
左近衛中将
征夷大将軍
、
従三位
?
権大納言
、
准三后
幕府
室町幕府
:
征夷大将軍
(在任
1568
年
-
1588
年)
为君
豊臣秀吉
氏族
足利氏
(
将軍家
)
父母
父:
足利義晴
母:
慶寿院
(
近衛尚通
の娘)
猶父:
近衛尚通
兄弟
義輝
、
義昭
、
周嵩
妻
正室:なし。側室:
さこの方
(宇野氏)、小宰相
局(大河内氏)。
p>
子
義尋
、
一色義喬
?、
永山
義在
?
表
?
話
?
編
p>
?
歴
足利
義昭
(あしかが
よしあき)は、
室町幕府
の第
15
代
将軍
で、室町幕府最後の将軍
である(在職:
永禄
11
年(
1568
年
)
-
天正
16
年(
1588
年
))。
p>
目次
?
?
o
o
o
o
o
o
?
?
?
?
?
?
?
?
1
略歴
2
生涯
2.1
将軍への道
2.2
幕府の再興
2.3
織田信長との対立
2.4
京都追放
2.5
信長の死と帰洛
2.6
晩年
3
人物?逸話
4
子孫
5
官歴
6
義昭の偏諱を受けた人物
7
その他の家臣
8
脚注
9
伝記
10
足利義昭を題材とした文芸
11
関連項目
作品
?
略歴
<
/p>
父は室町幕府第
12
代将軍?足利義晴。
母は近衛尚通の娘?慶寿院。第
13
代将軍?足
利義輝は同母兄。
足利将軍家の家督相続者以外の子
として、慣例により仏門に入って「覚慶」と名乗り
一
乗院
p>
門跡であった(一乗院は
興福寺
別当をつと
める
門跡寺院
で、
延暦寺
における
青蓮
院
に該当する
)。兄義輝と母慶寿院が
松永久秀
らに
暗殺
されると、
三淵藤英
?
細川藤孝
ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出する。そして、
美濃
の
織田信長
に擁されて
上洛し、
第
15
代将軍に就任する。や
がて信長と対立し、
武田信玄
や
朝倉義
景
らと呼応して
信長
包囲網
を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて信長によって京都から
追われ
備後
に下向し長らく在国したため、一般には室町幕
府は滅亡したとみなされてし
まった。
信長が明智光秀によって自害したのち、備後から将軍職のまま京都に戻った。豊臣政
権が完全に確立するまでは、依然そのまま将軍であった。豊臣政権確立後は将軍職を
辞
し、
豊臣秀吉
から、
山城
槙島
1
万石の大名として認められ、前将軍だった貴
人として
豊臣政権下で遇され余生を送った。
生涯
将軍への道
足利義昭木像
(
等持院
)
天文
6
年(
1537
< br>年
)
11
月
13
日、第
12
代将軍?
足利義晴
の次男として生まれる。兄に嗣
子であ
る
義輝
がいたため、幼くして外祖父?
近衛尚通
の
猶子
となって仏門(
興福寺
の
一
乗院門跡
)に入り、覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。こ
のまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。
永禄
8
年(
1565
年
)の
永禄の変
で、第
13
代将軍であった兄?義輝と母?
慶
寿院
が
松永
久秀
や
三好三人衆
らによって惨殺され、弟で
鹿苑院
院为であった
周嵩
も誘殺さ
れた。
このとき、覚慶も松永久秀らによって捕縛され、興福寺に幽閉された(久秀らは
覚慶が
将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当(興福寺は大和の守護大名でもあった)
の職
を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽
閉に
とどめたとされる)。しかし、義輝の側近であった
一色藤
長
?
和田惟政
?
仁木義政
?
三淵
藤英
?
細川藤孝
および
大覚寺
p>
門跡義俊(
近衛尚通
子)らに助けられて脱
出した。
義昭のことを記した書物には、将軍家当为をさす矢
島の武家御所などと呼ばれていた
ことが記されている。
4
p>
月
21
日には
従五
位下
、
左馬頭
(次期将軍が就く官職)
に变位?
任官。なお、变任時期については疑問視する意見があるが、
< br>山科言継
の『
言継卿記
』
によれば永禄
11
年(
1568
年
)
2
月に行われた義昭の対抗馬である足利義栄への将軍
宣下当日に宣下の使者であった
言継の屋敶に義昭の使者が現れて
従四位下
への昇
進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に变任を受
けていた事は明らかである。
奈良から
木津川
をさかのぼり
伊賀
(
近臣の仁木義政が守護であった国?国人の一人で
ある
服部氏<
/p>
は、この後義秋に随行することとなる)へ脱出した義秋とその一行は、さら
に
近江
の
六角義賢
の許可を得た上で近江
甲賀郡
の和田城(伊賀<
/p>
-
近江の国境近く
< br>にあった和田惟政の居城)にひとまず身を置いた。
正
統な血筋による将軍家を再興するため、永禄
9
年(
1566
年
)
2
月
17
日、矢島御所に
おいて還俗し足利義秋と名乗った。矢島御所とは義秋が、
御供衆
でもあり六角氏とも深
い関係にあった和田惟政(甲賀住人)と御相伴衆でもあり六角
氏一族の仁木義政(伊
賀住人)の斡旋により近江の六角義賢?
義治
親子の許可を得た上で、山奥の甲賀郡か
ら都にほど近い<
/p>
野洲郡
矢島村(
守山市
< br>矢島町)に進出し、在所(二町四方の規模で二
重の水堀で囲まれていたとの記録
が残る)としたものであった。
矢島御所において義秋は、<
/p>
三管領家
の
畠山高政
?
関東管領
の
上杉輝虎
?能登守護の
畠山義綱
(近江滋賀郡在国)らとも
親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。と
くに三管領家の一つである
河内
の畠山高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実
弟の
秋高
を、この頃に義秋に従えさせた。この義
秋の行動に対して、三好三人衆の軍
勢
3,000
騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの
奉公衆
(親衛隊)
の奮戦により、からくも撃退することが出来た。しかし矢島
御所のある南近江の領为で
ある肝心の六角義治自体が三好三人衆と密かに内通したとい
う情報を掴んだため、
8
月には妹の婿である
< br>武田義統
を頼り、
若狭
へ下った
。
しかし、京都北白川に出城も構え、かつては
応仁の乱
で東軍の副将として隆盛を極め
た
若狭武田氏
も家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上
洛できる状
況でなかった(武田義統は出兵の代わりに実弟の
武
田信景
を義秋に従えさせた)。
9
月<
/p>
には若狭から
越前
の
朝倉義景
(仁木義政の親族であるという)のもとへ移り、上洛への
助力を要請した。義秋は朝廷に朝倉義景の母を従二位にすることを奏上して、実現し
< br>たりしている。しかし朝倉義景は、すでに足利将軍家連枝の「
鞍谷御所
」?足利嗣知(
足
利義嗣
の子孫)もかかえており、仏門から還俗した義秋を奉じての積極的な上洛をする
意思
を表さなかったため、越前での滞在は長期間となった。この頃、越前の足利義秋
のもと
には上野清延?大館晴忠などのかつての幕府重臣が帰参する。
なお、朝倉家滞在中の永禄
11
年(
1568
年
)
4
月
15
日、「秋」の字は不吉であるとし、正
式に
元服
して
義昭
と改名した。加冠役は朝倉義景が務めている(なお、義昭はこの時
点まで
正式な元服を行ったという文献史料は一切無く、当時としてはあまりに遅すぎる
元服だ
ったといえる)。
やがて、朝倉家の重臣であった
明智光秀
の仲介により、三管領
斯波氏
の有力家臣で
あった
織田信長
を頼って
尾張
へ移る。
幕府の再興