关键词不能为空

当前您在: 大学查询网 > 大学 >

林国荣创意科技大学2014年北京外国语大学日研中心日语语言文学考研辅导讲义之日本文化部分

作者:高考题库网
来源:https://bjmy2z.cn/daxue
2020-11-25 07:10
tags:

中国计量大学教务-中国计量大学教务

2020年11月25日发(作者:元雅)



2014

年北京外国语大学日研中心日语语言文学考研辅导讲义之日本文


化部分





1

教学目的与要求:


2

授课内容与时间安排:


3

教学方法


4

具体教学内容





教学目的与要求


辅助学生更好地完成考研任务,帮助他们能充分地理解整个知识系统,减少在日常复习考研


中所遇到的阻力,使其能更加完整清晰地理解整个文化知识框架。



授课内容与时间安排


1

着重讲述日本各个阶段文化的发展过程,总结其特点,找出其规律性。


2

时间安排:

18

19



教学方法


根据以前所总结的 有关文化的内容,

日本历史,

日本文化史等相关书籍和近年来文化方向试


卷的内容,

先总括分析,

大体讲各个时期的文化的特点和将文化方 面的特点比如说宗教史,


制史等,

然后演绎推导,

分析总结日研试题的大体走向,

最后点出考研文化应该注意的各个方

< br>面。


















育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班









具体教学内容


飛鳥文化(仏教文化)


氏寺


飛鳥寺(あすかでら)

(=法興寺(ほうこうじ)


四天王寺

?

斑鳩寺(いか るがでら)

(=法隆寺(ほうりゅうじ)


彫刻


鞍作鳥(くらつくりのとり)

法隆寺金堂釈迦三尊像(ほうりゅうじこんどうしゃかさんぞんぞう)


中宮寺や広隆寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)


法隆寺の百済観音像(くだらかんのんぞう)


絵画や工芸


高句麗の僧曇徴(どんちょう)絵 の具

?

?

墨の製法

< p>
法華経(ほけきょう)

?

維摩経(ゆいまきょう)

?

勝鬘経(しょうまんきょう)三経義疏(さんきょうぎ


しょ)

< p>

聖徳太子


百済の僧の観勒(かんろく)暦



天平文化(奈良時代)


貴族文化

聖武天皇族

遣唐使

唐の最盛期の文化

国際色豊かな性格


(記紀と万葉集)


天武天皇の時に国史編纂の事業


712(和銅5)年に『古事記』

(こじき)


720(養老4)年に『日本書紀』

(にほんしょき)


地誌の編纂

713

風土記(ふどき)


漢詩文


淡海三船(おうみのみふね)

石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)


751『懐風藻』

(かいふうそう)

天智天皇

現存最古の漢詩集


和歌


山上憶良(やまのうえのおくら)

山部赤人(やまべのあかひと)

大伴旅人(おおとものたびと) 大


伴家持(おおとものやかもち)


『万葉集』

(まんようしゅう)奈良時代

4500首

歌集

著名な歌人

農民


(< /p>

漢字の音訓をたくみに組合わせて日本語を記す、万葉がなが用いられていることも特徴の1つであ


る。


教育制度


中央に大学、地方に国学

貴族や地方豪族

儒教の経典

< br>大学や国学は主に官吏を養成するための機関であって、庶民の教育は行われなかった。


国家仏教の発展


奈良時代

鎮護国家(ちんごこっか)

仏教の教理の研究


南都六宗(なんとろくしゅう)

*

5)


鑑真(がんじん)


行基(ぎょうき)

農民のため

布教と社会事業


天平の美術


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





東大寺法華堂

(とうだいじほっけどう)

唐招提寺金堂

(とうしょうだいじこんどう)

唐 招提寺講堂、


法隆寺伝法堂(でんぽうどう)

、正倉院宝庫


彫刻

金銅像のほかに、塑像(そぞう)や乾漆像(かんしつぞう)


絵画

薬師寺吉祥天像(やくしじきちじょうてんぞう)仏画


正倉院の鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょびょうぶ)唐の影響


正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)



弘仁

貞観文化


平安京遷都から9世紀末ごろまでの文化


この 時期は、新都のもとで新時代を開こうとする生気にあふれ多彩な文化が展開した。主な特色として


唐の文化を十分に消化して漢文学が発展したこと、新しい仏教(=密教)が盛んになったことである 。



平安新仏教と密教美術


最澄

(さいちょう)

天台宗

(てんだいし ゅう)


空海

(くうかい)

< p>密教(みっきょう)

真言宗

(しんごんしゅう)

< p>


天台宗

円仁(えんにん)や円珍(えんちん)に よって本格的に密教がとりいれられた。仏教と古くか


らの神々との信仰との間に融合の 動きがあらわれ


8世紀には神社の境内に神宮寺(じんぐうじ)を建て たり、寺院の境内に守護神を鎮守としてまつった


り、神前で読経するなど神仏習合(し んぶつしゅうごう)の風が高まった。修験道(しゅげんどう)


彫刻や

絵画

密教の影響


如意輪観音(にょいりんかんのん)や不動明王像(ふどうみょうおうぞう)

< p>


彫刻

一木造(いちぼくづくり)観心寺如意輪観音像


絵画

曼荼羅(まんだら)園城寺(おんじょうじ)不動 明王像や神護寺(じんごじ)両界曼荼羅


漢文学の隆盛


六国史(りっこくし)


勅撰漢詩文集

「凌雲集」

(りょううんしゅう)

「文華秀麗集」

(ぶんか しゅうれいしゅう)

「経国集」

(けい


こくしゅう)


個人の漢詩文集

「性霊集」

(しょうりょう しゅう)


唐風の

書道

(唐様

三筆)嵯峨天皇

空海(くうかい)橘逸勢(たちばなのはやなり)


大学 での

学問

もさかんになり、大学別曹(だいがくべっそう)


空海が開いた綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)は、庶民の教育


和気(わけ)氏の弘文院(こうぶんいん)

、藤原氏の勧学院(かんがくいん )

、橘氏の学館院(がっかん


いん)

、在原(ありわら) 氏や皇族の奨学院(しょうがくいん)


最も充実して有名なのは勧学院だった。



国風文化

(国風文化)


10世紀以降の文化

摂関政治の時期であるため藤原氏 がさかえた時代を中心とする文化として藤原文


化(ふじわらぶんか)とも呼んでいる。


国文学の発達


かな文字の発達

平がな(ひらがな)や片かな(かたか な)が表音文字として用いられ、11世紀初め


には字形もほぼ一定し広く使用された。


漢文学

とともに、

和歌

(わか)


905(延喜5)年、最初の

勅撰和歌集

として『古今和歌集』

(こきんわかしゅう)紀貫之(きのつらゆ

き)繊細で技巧的な歌風は古今調と呼ばれて長く和歌の模範とされた。


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





かなの物語

日記


物語

伝説を題材とした『竹取物語』

(たけとりものがたり)


歌物語の『伊勢物語』

(いせものがたり)

< p>
紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』

(げんじものがたり)


随筆

清少納言(せいしょうなごん)

(清少納言人物)の『枕草子』

(まくらのそうし)かな日記


貫之の『土佐日記』

(とさにっき)


浄土の信仰


神仏習合(しんぶつしゅうごう)本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)御霊会(ごりょうえ)


このような現世の利益をもとめるさまざまな信仰とならんで、来世での幸福を説いて現 世の不安から逃


れようとする浄土教(じょうどきょう)が新たに流行した。

< p>


10世紀半ばに空也(くうや)

源信(げんしん )

「往生要集」

(おうじょうようしゅう)末法思想(ま


っぽうしそう)


慶滋保胤(よししげのやすたね)の「日本往生極楽記」

往生伝


国風美術


国風化の傾向


建築

貴族の住宅

白木造

桧皮葺の寝殿造(しんでんづくり)


襖や屏風

大和絵(やまとえ)


初期の大和絵の画家

巨勢金岡(こせのかなおか)


屋内の調度品

蒔絵(まきえ)


書道

三蹟(さんせき)

和様(わよう)小野道風(おののとうふう)藤原佐理(ふじわらのさり)藤


原行成( ふじわらのこうぜい)


美術作品

阿弥陀堂

の代表的な遺構

藤原道長

法成寺

(ほうじょうじ)

藤原頼通

平等院鳳凰堂

(び

ょうどういんほうおうどう)


有名な仏師

定朝(じょうちょう)


寄木造(よせぎづくり)


貴族の生活


男子の正式な服装は、束帯(そくたい)衣冠(いかん)


女子の正装

十二単(じゅうにひとえ)

女房装束(にょうぼうしょうぞく)


食生活

比較的簡略

獣肉は用いられず

調理に油を使うこともなく、日に2回を基準とした。


10~15歳くらいで男子は元服(げんぷく)

、女子は裳着(もぎ)の式をあげ、成人として扱 われた。


男子は官職を得て朝廷に出仕し、先例や作法を心得ていることが大切な教養と された。


結婚すると男子が妻の家で生活するのがふつうで、生まれた 子は妻の家で養育され、今日よりも母方の


縁がはるかに深かった。



鎌倉文化

(鎌倉文化)


この時代では< /p>

公家が文化の担い手

となって伝統文化を引き続き栄えさせた。一方では武士や庶民 に支持


された新しい傾向の文化が生みだされた。新文化はしだいに成長し、やがて伝統 文化を圧倒していくこ


とになった。

その背景としては、

素朴な中にも質素な生活を築いていた武士が社会の中心となることで、


その気風が文学 や美術の中にうつしだされるようになったことである。また、日宋間を往来した僧侶や


商人に加え、中国大陸の政情の変化による亡命者が海外の新しい要素を導入したこともあげられる。

< p>



鎌倉仏教


精神面にも多くの新しい気運がもたらされて、それまでの祈祷や学問中心のものから、内面的な深まり


を持ちつつ庶民などの広い階層を対象とする鎌倉仏教へと変化した。


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





最初にあらわれた

法然(ほうねん)

浄土宗(じょうどしゅう)の開祖


京都の貴族

武士や庶民


旧仏教側からの非難が高まり法然や弟子達は流罪などの迫害を受ける ようになった。


貴族出身の親鸞(しんらん)

悪人正機(あくにんしょうき)


農民や地方武士


やがて浄土真宗(じょうどし んしゅう)

(=一向宗(いっこうしゅう)

)と呼ばれる教団を形成した。


有力武士の家一遍(いっぺん)踊念仏(おどりねんぶつ) 時宗(じしゅう)


地方の武士や農民


法華信仰をもとに

日蓮

(にちれん)

鎌倉を中心に、

他宗を激しく攻撃しながら布教を進めた日蓮は、


幕府にしばしば迫害されたが日蓮宗(にちれんしゅう)


関東の武士層を中心


栄西(えいさい)

臨済宗(りんざいしゅう)の開祖


幕府は臨済宗を重んじ、宋から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)

鎌倉に建長寺(けんちょうじ)


覚寺(えんがくじ)などの大寺を建立した。


曹洞宗

道元(どうげん)

宋にわたって禅宗を学び、いっさいの余事を かえりみず、座禅そのもの


を重視する教えを説いた

< br>鎌倉仏教に共通する特徴

は、厳しい戒律や学問などを重要視せず、ただ選び取られた一つ の道(念仏

?


?

禅)

によってのみ救いにあずかることができると説き、

広く武士や庶民に門戸を開い たところにある。


旧仏教側


鎌倉時代の初めころ、法相宗(ほっそうしゅう)の貞慶(じょうけい)


華厳宗(けごんしゅう)の高弁(こうべん)

戒律を尊重して南都仏教の復興


律宗の叡尊(えいそん )と忍性(にんしょう)は、戒律を重んじるとともに貧しい人々や病人の救済

?


療などの社会事業に献身し、多くの人々に影響を与えた。


また

古くからの山岳宗教と結びついた修験道(しゅげんどう)が広く行われた。


中世文学のおこり


和歌


藤原定家(ふじわらのさだいえ)藤原家隆(ふじわらのいえたか)

< /p>

「新古今和歌集」

(しんこきんわか


しゅう)

この作風は上皇を中心とする貴族達の間に広く受け入れられ、多くのすぐれた歌人が生まれ


た。


また武士の間

源実朝

「金塊和歌集」

(きんかいわかしゅう)


軍記物語(ぐんきものがたり)


「平家物語」

(へいけものがたり)

琵琶法師(びわほうし)


随筆の名作


吉田兼好(よしだけんこう)

「徒然草」

(つれづれぐさ)


有職故実(ゆうそくこじつ)


北条実時(ほうじょうさねとき)とその子孫

武蔵の金沢に金沢文庫(かなざわぶんこ)幕府の関係者


幕府の歴史を日記体で記した史書「吾妻鏡」

(あづまかがみ)


鎌倉文化の主な著作物


和歌集


山家集(さんかしゅう)

(

西行

)


新古今和歌集

(

藤原定家ら)


金塊(きんかい)和歌集(源実朝

)


説話集


十訓抄(じっきんしょう)

(

未詳

)


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)

(

未詳

)


古今著聞集(ここんちょもんじゅう)

(

橘成季

)


沙石集(しゃせきしゅう)

(無住)


随筆


方丈記(鴨長明)


徒然草(吉田兼好

)


紀行

< /p>


東関紀行(とうかんきこう)

(

源親行?)


海道記(かいどうき)

(

未詳

)


日記


十六夜日記(いざよいにっき)

(

阿仏尼(あぶつに)


軍記物語


保元物語(未詳

)


平治物語(未詳)


平家物語(信濃前司行長?)


源平盛衰記

(

未詳

)


歴史


水鏡

(

中山忠親?)


愚管抄

(

慈円

)


吾妻鏡

(

編者未詳)

< br>元亨釈書(げんこうしゃくしょ)

(

虎関師錬(こかんしれん)

< p>)


注釈書


万葉集注釈( まんようしゅちゅうしゃく)

(仙覚(せんかく)


その他


禁秘抄(きんひしょう)

(順徳天皇)


釈日本紀(卜部兼方)


興禅護国論(栄西)


正法眼蔵(道元)


類聚神祇本源(るいじゅう じんぎほんがん)

(渡会家行)


芸術の新傾向


彫刻

の分野


運慶(うんけい)湛慶(たんけい)父子

快慶(かいけい)仏像や肖像の彫刻


建築


大仏様(だいぶつよう)

禅宗様(ぜんしゅうよう)


折衷様(せっちゅうよう)


絵画


絵巻物(えまきもの)全盛期


絵巻物は物語の 挿絵から発達し、寺社の縁起、高僧の伝記などの形で、民衆を前にした説教にも利用さ


れるようになった。


似絵(にせえ)

藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)信実(のぶざね)


建築


東大寺南大門(大仏様)


円覚寺舎利殿(禅宗様)


観心寺金堂


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





石山寺多宝塔(和様)


三十三間堂(和様)


彫刻


東大寺僧形八幡神像(快慶)


東大寺南大門金剛力士像(運慶

?

快慶)


東大寺重源上人像


興福寺無著(むちゃく)< /p>

?

世親(せしん)像(運慶ら)


興福寺天 灯(てんとう)鬼

?

竜灯(りゅうとう)鬼像(康弁ら)


明月院(めいげついん)上杉重房像


六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)空也上人像(康勝)


高徳院(こうとくいん)阿弥陀如来像(鎌倉大仏)


絵画


源頼朝

?

平重盛像(藤原隆信)


親鸞上人像(鏡の御影(みえい)


後鳥羽上皇像(藤原信実

)


北野天神縁起絵巻(伝藤原信実)


蒙古襲来絵巻


一遍上人絵伝


法然上人絵伝


春日権現験記(高階(たかしな)隆兼)


平治物語絵巻


石山寺縁起絵巻(高階隆兼)


明恵上人樹上坐禅図(成忍(じょうにん)


男衾(おぶすま)三郎絵巻


西行物語絵巻


鑑真和上(わじょう)東征絵伝


粉河寺縁起絵巻


後三年合戦絵巻


地獄草紙


病草紙


餓鬼草紙


書蹟


鷹巣帖(たかのすじょう)

(尊円入道親王)



室町文化


武家勢力が文化的にも担い手

禅宗の影響を強く受けた 武家文化が、伝統的な公家文化と融合しながら


特色ある文化を生み出した。また、さま ざまな文化の融合も進み、しだいに民族的文化というものが形


成されていった。今日の 日本の伝統文化を代表するものとされる能(のう)狂言(きょうげん)茶の湯


生け花などの多くは、この時代に中央

地方を問わず、 公家武家庶民の別なく愛好され、形を整えて基


盤を確立していった。


南北朝の動乱期を背景とした南北朝文化が生まれ、ついで将軍義満(よしみつ)

(足利義満人物)の時


代に

北山文化

(きたやまぶんか)が、将軍義政(よしまさ)

(足利義政人物)の時代 に

東山文化

(ひが


しやまぶんか)が形成され、とくに北 山東山文化は室町時代の2つの頂点をなしている。



育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





南北朝文化


歴史書や軍記物語


歴史書


公家側の立場

「増鏡」

(ますかがみ)

北畠親房

(きたばたけちかふさ)

「神皇正統記」

(じんのう しょうとうき)


軍記物語


武家の歴史叙事詩「太平記」

(たいへいき)


足利政権成立の過程「梅松論」

(ばいしょうろん)

< /p>


今川了俊(いまがわりょうしゅん)

「難太平記」

(なんた いへいき)


連歌(れんが)茶寄合(ちゃよりあい)闘茶(とうちゃ)


(北山文化)


3代将軍義満


金閣

(きんかく)伝統的な寝殿造(しんでんづくり)風と禅宗寺院の禅 宗様(ぜんしゅうよう)を折衷


(せっちゅう)した

.


臨済宗(りんざいしゅう)

夢窓疎石(むそうそせき)


京都と鎌倉に五山(ござん)の制

十刹(じつさつ)の制


禅の精神的境地を具体化した水 墨画(すいぼくが)

?

建築様式などを広く伝えた。


五山文学

(ござんぶんがく


また彼らは幕府の政治

?

外交顧問として活躍したり、

< p>禅の経典

?

漢詩文集などを出版

(五山版)

す るなど、


中国文化の輸入に大きな役割を果たした。


(のう)

専門的芸能集団


大和猿楽四座

観世座(かんぜざ)観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)父子


将軍義満の保護を受け、

洗練された芸の美を追求して芸術性の高い猿能楽

(さるのうがく)

を完成した。


観阿弥

世阿弥父子は能の脚本である謡曲(ようきょく )を数多く書くとともに、世阿弥は能の真髄を述


べた「花伝書」

(かで んしょ)などの理論書を残した。



(東山文化)


将軍義政は応仁の乱後、京都の 東山に山荘を作り、義満にならって銀閣(ぎんかく)を建てた。この時


代の文化は、東 山山荘に象徴されるところから東山文化(ひがしやまぶんか)と呼ばれる。この文化は


禅の精神に基づく簡素さと、伝統文化の幽玄

わびを精神的な基調としていて、 銀閣の下層および東求堂


同仁斎(とうぐどうどうじんさい)に見られる書院造(しょい んづくり)は、近代の和風住宅の様式の


もとをなすものであった。


庭園

枯山水(かれさんすい)


竜安寺(りょうあんじ)

大徳寺大仙院(だいとくじだいせんいん)

西芳寺(さいほうじ)などの庭園


新しい

住宅様式

掛軸(かけじく)襖絵(ふすまえ)などの絵画、床の間を飾る生け花

工芸品をいっそ


う発展させた。


水墨画


五山の僧明兆(みんちょう)如拙(じょせつ)周文(しゅうぶん)


雪舟(せっしゅう)日本的な水墨画様式を創造した。


大和絵


土佐光信(とさみつ のぶ)が

土佐派

(とさは)の基礎をかため、


狩野正信(かのうまさのぶ)元信(もとのぶ)父子

水 墨画に伝統的な大和絵の手法を取りいれ新しく


野派

( かのうは)をおこした。


茶道

(さどう)

花道

(かどう)

この時代に基礎がすえられた。


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





村田珠光(むらたじゅこう)

茶と禅 の精神の統一を主張し茶室で心の静けさをもとめる侘び茶(わびち


ゃ)を創出した

=


生け花は座敷の装飾に組みこまれて立花(りつか)

=< /p>

様式が定まり、床の間を飾る花そのものを鑑賞する


形が作られていった。


有職故実

(ゆうそくこじつ)

古典の研究


一条兼良(いちじょうかねよし)多くの研究書や注釈書


神道思想

の立場からする「日本書紀」などの研究が進み、

吉田兼倶< /p>

(よしだかねとも)

(吉田兼倶人物)


は 反本地垂迹説(はんほんじすいじゃくせつ)に基づき、神道を中心に儒学

?

仏教 を統合しようとする


一神道

(ゆいいつしんとう)を完 成した。


建築


鹿苑寺金閣(寝殿造

?

禅宗様)


永保寺開山堂(禅宗様)


興福寺五重塔(和様)


慈照寺東求堂(書院造)

?

同仁斎


慈照寺銀閣(書院造

?

禅宗様)


庭園


西芳寺庭園(さいほうじていえん)


天竜寺庭園


鹿苑寺

?

慈照寺庭園


竜安寺庭園(石庭)


大徳寺大仙院庭園


絵画


寒山図(可翁(かおう)


妙心寺退蔵院瓢鮎図(如拙)


(みょうしんじたいぞういんひょうねんず)


四季山水図(山水長巻)


秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)

(雪舟)


周茂叔愛蓮図(しゅうもしゅくあいれんず)

(狩野正信)


大仙院花鳥図(伝狩野元信)


寒山拾得図(かんざんじっとくず)

(周文)


風俗図屏風


慕帰絵詞


学問

?

思想


増鏡(ますかがみ)

(未詳)


梅松論(ばいしょうろん)

(未詳)


神皇正統記(じんのうしょうとうき)

(北畠親房)


太平記(たいへいき)

(未詳)


難太平記(なんたいへいき)

(今川了俊)


義経記(ぎけいき)

(未詳)


曽我物語(そがものがたり)

(未詳)


建武年中行事(けんむねんちゅうぎょうじ)

(後醍醐天皇)


職原抄(しょくげんしょう)

(北畠親房)


公事根源(くじこんげん)

(一条兼良)


樵談治要(しょうだんちよう)

(一条兼良)


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





花鳥余情(かちょうよせい)

(一条兼良)



花伝書(かでんしょ)

(= 風姿花伝)

(世阿弥元清)


申楽談義(さるがくだんぎ)

(世阿弥元清)


連歌

?

その他


菟玖波集(つくばしゅう)

(二条良基)


応安新式(おうあんしんしき)

(二条良基)


水無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん)

(宗祇ら)


新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)

(宗祇)


犬菟玖波集(いぬつくばしゅう)

(山崎宗鑑)


閑吟集(かんぎんしゅう)

(未詳)


物語


御伽草子


酒呑童子


物くさ太郎


浦島太郎


文正草子


一寸法師


十二類絵巻


その他


庭訓往来(ていくんおうらい)

(未詳)


節用集(せつようしゅう)

(未詳)


正平版論語(しょうへいばんろんご)


(庶民文芸の流行)


幸若舞(こうわかまい)古浄瑠璃(こじょうるり)小歌(こうた)


小歌の歌集として「閑吟集」

(かんぎんしゅう


連歌(れんが)は和歌を上の句と下の句にわけ、一座の人々が次々に連作して五十句

百句にまとめた


共同作品であった。


南北朝時代にでた二条良基(にじょうよしもと)

「菟玖波集」

( つくばしゅう)

「応安新式」

(おうあんし


んしき)菟玖 波集」が勅撰集に準ぜられてからは和歌と対等の地位を築いた。宗祇(そうぎ)正風連歌


(しょうふうれんが)を確立し、

「新撰菟玖波集」

(しんせんつくばしゅう)


山崎宗鑑(やまざきそうかん)俳諧連歌(はいかいれんが)

「犬筑波集」

(いぬつくばしゅう

< p>
連歌はこれを職業とする連歌師が各地を遍歴し普及につとめたので、地方の大名や武士だけでなく 民衆


の間でも愛好されて流行した。


御伽草子

(おとぎぞうし)御伽草子には、絵の余白に当時の話し言葉で書かれている形式のものが多く< /p>


見られ、読むものであるとともに話すものであり、絵を見て楽しむものでもあった。今日 各地で盛んに


行われている

盆踊り

(ぼんおどり)も、こ の時代に姿をあらわした。


新仏教の発展

天台

?

真言などの旧仏教は、しだいに勢力がおとろえていった。しかし鎌倉 仏教の各宗派は、武士

?

農民

?


商工業者 などの信仰をえて都市や農村に広まっていった。禅宗の五山派(ござんは)は、将軍

?

守護など


の保護を受けて盛んに活動したが、幕府の衰退とともに衰えた。これに 対し、より自由な活動を求めて


地方布教をこころざした禅宗諸派(林下(りんか)

*

7)は、地方武士

?

< p>民衆の支持を受け各地に広が


った。朝廷との結びつきを深めて京都で勢力を拡大し た浄土宗(じょうどしゅう)は東国へ布教活動を


広げていった。


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





日蓮宗(にちれんしゅう)は、東国の地方武士を基盤にして発展した が、やがて京都に進出し公家や都


市民の信仰を集めた。中国地方や九州地方に宗勢をの ばした日親(にっしん)

(日親人物)は、他宗と


激し い論戦を行ったためしばしば迫害を受けた。京都で財力を蓄えた商工業者には日蓮宗の信者が多く、

< p>
彼らは京都を戦火から守るため法華一揆(ほっけいっき)をむすび、自衛のために戦ったこともあ った


*

8)


浄土真宗(じょうどしんしゅう)では、応仁の乱のころ本願寺の蓮如(れんにょ)

< p>

(蓮如人物)が精力


的な布教活動をするとともに、阿弥陀仏(あ みだぶつ)の救いを信じて念仏を唱えれば、誰でも極楽往


生ができることを平易な文章 で説き、講(こう)を組織して惣村を直接つかんでいった。このようにし


て広まってい った本願寺の勢力は、各地域ごとに強く結束し本願寺がこれを組織したので強大なものと


なった。農村の支配を強めつつあった大名権力と門徒集団が衝突し、各地で一向一揆(いっこういっき)


が起こった。その代表的なものが、加賀の一向一揆(かがのいっこういっき)であった。< /p>



桃山文化

< br>信長

?

秀吉の時代をその居城の地名にちなんで安土桃山(あづちももやま )時代といい、この時代の文化


を桃山文化(ももやまぶんか)という


この文化の傾向は17世紀初めまで及んでいるので、江戸時代の初期頃までを含めてい うことが多い。


1世紀にも及んだ戦乱もおさまり、国内は久しぶりに統一され各地の経 済文化とが交流した。また外国


との交渉を活発であったから、その時代感覚が文化のう えに反映されて、新鮮味の豊かな、豪華

?

壮大な


内容を 持つ文化を生み出した。文化のあらゆる面で仏教色がうすれ、現実的な絵画や彫刻などが多く製


作されている。


(桃山美術)


城郭(じょうかく)建築


安土城(あづちじょ う)大坂城(おおさかじょう)伏見城(ふしみじょう)


城の内部には 書院造り(しょいんづくり)をとりいれた巨館が設けられ、内部の襖(ふすま)

?

?

屏風


(びょうぶ)には濃絵(だみえ)とよばれる 金碧(きんぺき)の彩色を持つ障壁画(しょうへきが)が


描かれ、欄間(らんま)には 透かし彫りの彫刻がほどこされて豪華さを加えていた。


狩野派で、狩 野永徳(かのうえいとく)室町時代にさかんになった水墨画と日本古来の大和絵とを融合


させて、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図をもつ新しい装飾画を大成し、その門人狩野山楽(かの


うさんらく)

(狩野山楽人物)とともに多くの障壁画を描いた。


建築


妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)

(伝千利休)


大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣(伝聚楽第遺構)


都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿(伏見城遺構)


西本願寺書院(鴻の間)


醍醐寺三宝院(さん ぽういん)表書院

?

庭園


姫路城(城鷲城)


松本城天守閣


二条城二の丸御殿


絵画


洛中洛外図屏風(狩野永徳)


唐獅子(からじし)図屏風(狩野永徳)


松鷹図(しょうようず)

(狩野山楽)


牡丹図(ぼたんず)

(狩野山楽)


檜(ひのき)図屏風(狩野永徳)


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





智積院(ちしゃくいん)襖絵(伝長谷川等伯)


松林(しょうりん)図屏風(長谷川等伯)


山水図屏風(海北友松)


職人尽図(しょくにんつくしず)屏風(狩野吉信)


花下遊楽(かかゆうらく)図屏風(狩野長信)


高雄観楓(たかおかんぷう)図屏風(狩野秀頼)


南蛮屏風


工芸


高台寺蒔絵(こうだいじまきえ)


(町衆の生活)


新興の武将らとともに、京都

大坂

博多などの都市で活動する富裕な町衆(まちしゅう)も、こ


の時代の文化の担い手であった


堺の

千利休(

せんのりきゅう)は、茶の湯の儀礼を定め茶道(さどう)を確立した。利休の完 成した侘


び茶(わびちゃ)の方式は簡素閑寂を精神とし、はなやかな桃山文化のなかに 異なった一面を生み出し


た。


17世紀初めに出雲の阿国(いずものおくに)

歌舞伎踊り

(阿国歌舞伎(おくにかぶき)

)< /p>

。これを


もとに琉球から渡来した

三味線

( しゃみせん)を伴奏楽器として、簡単な舞踏をする女歌舞伎が生まれ



また浄瑠璃節(じょうるりぶし)

人形浄瑠璃


堺の商人高三隆達(たかさぶりゅうたつ) が小唄に節づけをした

隆達節(

りゅうたつぶし)も市民に人

気があり、盆踊りなども各地でさかんに行われた。



(南蛮文化)


南蛮貿易がさかんになり、宣教 師の布教が活発になるにつれて庶民の中にも、タバコを吸ったり、南蛮


風の衣服を身に つけるものが出てきた。宣教師達は

天文学

?

医学

?

地理学

など

実用的な学問

を伝えたほか、


油絵や銅版画の技法をもたらし、日本人の手によって西洋画の影響を受けた

南 蛮屏風

(なんばんびょう


ぶ)も描かれた。また

活字印刷 術

もヴ?リニャーニによって伝えられ、ローマ字によるキリスト教文学

?


宗教書の翻訳、日本語辞書、日本古典の出版なども行われた(キリシタン版

?

天草版)

*

14)

< p>


元禄文化


(元禄文化)


17世紀半ばから18世紀はじ め、幕藩体制が安定し町人の台頭がめざましくなってきた時代にうまれ


た元禄文化(げ んろくぶんか)は、鎖国の時代を反映して外国の影響の少ない、日本独自の文化をうみ


だすことにもなった。


元禄文化の目立った特色は、

現 実主義の傾向

が示されていることで、政治と結びついて儒学が奨励され


実証主義の立場にたつ古典研究や自然科学の学問が進んだことである。また現世を「浮き世」とみて、


町人の中から現実社会を描こうとする文学がうまれた。


元禄文化の主な担い手は、京都

大坂などの上方の豪商 で、豪華な桃山文化や江戸初期の文化の伝統を


うけつぎ、より洗練された美しさをあら わした。


(元禄期の文学)


元禄文化の特色


町人文芸で

井 原西鶴

(いはらさいかく)

松尾芭蕉(

まつおばしょう)

近松門左衛門

(ちかまつもんざえ


もん)に代表される。


井原西鶴

浮世草子(うきよぞうし)小説


現実肯定の立場から「 浮き世」の世相や風俗を描き、町人が愛欲や金銭への執着を見せながら、みずか


育明教 育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





らの才覚で生きぬく姿を赤裸々に写しだした。


松尾芭蕉

伊賀の武士出身で、さび

しおり

細みで示される幽玄閑寂の

蕉風

(正風)俳諧(しょうふ


うはいかい)を確立した。

< p>
彼は各地に旅をして地方の武士

?

商人

?

< p>地主たちとまじわり、

奥の細道

などのす ぐれた紀行文も残した。


近松門左衛門

京都近くの武士の出身で

当時流行していた人形浄瑠璃(にんぎ ょうじょうるり)や歌


舞伎(かぶき)の脚本を書いた


世俗の出来事や歴史を題材にとり、義理と人情との板ばさみに悩む町人の姿を美しく表現した。彼の作


品は竹本義太夫(たけもとぎだゆう)によって語られた。竹本義太夫の独特の語りは、 義太夫節(ぎだ


ゆうぶし)という独立した音曲に成長していった。


歌舞伎

も民衆の演劇として発達し、江戸

上方には常設の芝居小屋がうまれた。


江戸に勇壮な演 技(荒事)で好評をえた市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)

上方に恋愛劇 での男


性役(和事)を得意とする坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)

、女形の代表とされる芳沢あやめ(よし


ざわあやめ)らの名優が出た。


(儒学の興隆)


上下の秩序を重んじ、礼節を 尊ぶ朱子学(しゅしがく)の思想は為政者に歓迎され、封建社会を維持す


るための教学 とされ、なかでも

藤原惺窩(ふじわらせいか)

以来の

京学

の系統は篤く保護された。


南村梅軒

(みなみ むらばいけん)によってひらかれ、谷時中(たにじちゅう)にうけつがれた

南学

(な


んがく)も朱子学の一派で、

山崎闇斎

(やまざきあ んさい)野中兼山(のなかけんざん)

。とくに闇斎は


神道を儒教流に解 釈して

垂加神道

(すいかしんとう)を説いた。


朱子学に対し

中江藤樹

(なかえとうじゅ)や門人の

熊沢 蕃山

(くまざわばんざん)は、明の王陽明には


じまる陽明学を学んだが 、現実を批判して知行合一(ちこうごういつ)の立場で矛盾を改めようとする


革新的精 神をもっていたので、幕府に警戒された。


孔子

?

孟子の古説に直接たち帰って考えようとする

古学派

(こがくは)がお こった。

山鹿素行(やまがそ


こう)伊藤仁斎

(いとうじ んさい)東涯(とうがい)父子は京都の堀川に私塾古義堂(こぎどう)を、


荻生徂徠(

おぎゅうそらい)江戸に私塾けん園塾をひらき講義した。またその弟子の

太宰春 台

(だざい


しゅんだい)は徂徠の経世論を発展させ、武士が商業活動を 行い専売制度によって利益を収めるべきで


あると主張した。



(諸学問の発達)


儒学の発達は、合理的

?

現実的な思考を発達させ他の学問にも影響を与えた。< /p>


歴史学

儒学者の手により、古文書を引用した実証的な研究が行われる


新井白石

(あらいはくせき)

「読史余論」

(どくしよろ ん)

、武家政権の推移を段階的に区分して独自の史


論を展開した。


自然科学

では、本草学(ほんぞうがく)や農学医学などの

実用学問

が発達し、

貝原益軒

(かいばらえき


けん)の「大和本草」

(やまとほんぞう)

宮崎安貞

(みやざきやすさだ「農業全書」

(のうぎょうぜんし

< br>ょ)


和算

(わさん)

関孝和

(せきたかかず)筆算代数式のあらわしかたと計算法や円球に関する計算を考


えるなどすぐれた研究をうみだした。


天文暦学

安井算哲

(やすいさんてつ)

、日本ではじめての暦(

貞享暦(

じょうきょうれき)

< p>)をつくっ


た。


国文学の研究

< p>もはじまり、

戸田茂睡(とだもすい)

(和歌を詠むのに使 用してはならない言葉を定めた


ことの無意味さや、和歌に俗語を用いることの正当さを 説いた。


「万葉集」を研究した僧

契沖

(けいちゅう)

「万葉代匠記」

(まんようだいしょうき)をあらわして、和


歌を道徳的に解釈しようとする従来の説を排斥した。


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





また

北村季吟(

きたむらきぎん)

「源氏物語」や「枕草子」を研究して、作者の意図を探ろうとした。


これらの古典研究は、

のちに古代精神への探求に進み、

国学

(こくがく)

として成長することになった。


(元禄美術)


絵画

では

狩野派

がおとろえ、

大和絵系統の土佐派

からでた土佐光 起(とさみつおき)が朝廷の絵師とな


り、住吉派の住吉如慶(すみよしじょけい)具慶 (ぐけい)父子は幕府の御用絵師となって活躍した。


民間では

尾形光琳

(おがたこうりん)がでて、装飾的な表現で上層町人の間で観賞された。


庶民にもっとも愛好されたのは、美人

?

役 者

?

相撲などを題材とした

浮世絵

(うきよえ)で あった。とく


菱川師宣

(ひしかわもろのぶ)


工芸

でもすぐれた作品が多くつくられ、京都の

野々村仁斎

(ののむらにんせい)上絵付法をもとに色絵


を完成して京焼 (きょうやき)の祖といわれ、

尾形乾山

(おがたけんざん)はこの流れをくんで 装飾的


で高雅な

陶器

を残した。


染物

では

宮崎友禅

(みやざきゆうぜん)友禅染 (ゆうぜんぞめ)をはじめた。



化政文化


江戸は上方と並ぶ全国経済の中心地に発展し、多数の都市民を対象とする

町人文化

が最盛期を迎えた。


この時代の文化は化政文化(かせいぶんか)とよばれる。あいつ ぐ改革の厳しい統制の中で退廃と無気


力の傾向にみち、それを風刺や皮肉の文芸として 発散させ、人々は愛欲と笑いをもとめる方向に向かっ


た。都市の繁栄、商人文人の全国 的な交流、出版教育の普及、寺社参詣の流行などによって中央の文化


は各地に伝えられ 、文化の内容も多種多様のものとなった。


(化政文学)


江戸時代後期の文学は政治や社 会のできごとなどがさかんに題材とされ、元禄文学に比べて通俗的とな


ったが、一部の 人の独占物ではなく広く民衆のものとなっていった。


小説では、草双紙(くさぞうし)洒落本(しゃれぼん)が流行した。


洒落本は、代表作家

山東京伝(

さんと うきょうでん)寛政の改革で処罰されるとおとろえ、かわって


滑稽さや笑いをもとに庶 民の軽妙な生活を生き生きと描いた

滑稽本

(こっけいぼん)が盛んになり、


亭三馬

(しきていさんば)や

十返舎一九< /p>

(じっぺんしゃいっく)があらわれた。


恋愛を主題とし た

人情本

(にんじょうぼん)も庶民に受け入れられ、天保の初め頃には

為永春水

(ため


ながしゅんすい)天保の改革で処罰された。


史や伝説

を素材として、勧善懲悪を説く 長編小説の

読本

(よみほん)は寛政の改革後にさかんに読ま

れ、

上田秋成

(うえだあきなり)その後

滝沢馬琴

< p>(たきざわばきん)の「南総里見八犬伝」などの作品


があらわれた。これらは空想 的で現実性にとぼしかったり、芸術性にかけるところがあったが、多くの


人に親しまれ た。


俳諧

では、18世紀後半の天明期に

与謝蕪村

(よさぶそん)写生を重んじた客観的な句を詠み、化政期


に は

小林一茶(

こばやしいっさ)

(が農村の生活感情を詠んだ。


柄井川柳(からいせん りゅう)を選者とする17文字の

川柳

(せんりゅう)や太田南畝(おおたなんぽ )


宿屋飯盛(やどやのめしもり)を代表作者とする31文字の

狂歌

(きょうか)がさかんにつくられ、為


政者を風刺したり、 世相を皮肉るものも少なくなかった。


演劇

では、18 世紀前半に

竹田出雲(

たけだいずも)すぐれた浄瑠璃作品を残した。

< p>


歌舞伎

(かぶき)は18世紀後半に隆盛をみせることになり、歌 舞伎の様式が完成された。19世紀初


めには

鶴屋南北

( つるやなんぼく)幕末には

河竹黙阿弥

(かわたけもくあみ)が白浪物(しらなみ もの)


や世話物(せわもの)の名作を書いた。


洒落本


仕懸(しかけ)文庫(山東京伝)


黄表紙


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)

( 恋川春町)


江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)

(山東京伝)


読本


雨月(うげつ)物語(上田秋成)


南総里見八犬伝(滝沢馬琴)


椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)

(滝沢馬琴)


滑稽本


東海道中膝栗毛(十返舎一九)


浮世風呂(式亭三馬)


浮世床(式亭三馬)


合巻


偐紫(にせむらさき)田舎源氏(柳亭種彦)


人情本


春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)

(為永春水)


俳諧


蕪村七部集(与謝蕪村)


おらが春(小林一茶)


脚本


仮名手本忠臣蔵(竹田出雲)


菅原伝授手習鑑 (でんじゅてならいかがみ)

(竹田出雲)


東海道四谷怪談(鶴屋南北)


本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)

(近松半二)


川柳


誹風柳多留(やなぎたる)

(柄井川柳ら)


その他


菅江真澄(すがえますみ)遊覧記

(

菅江真澄)


北越雪譜

(

鈴木牧之)


(国学の発達)


18世紀前半になると、古い 時代を探求しようという気風がうまれ、

「古事記」や「日本書紀」などの研

究を進めて、日本古来の道を説く国学(こくがく)に発展した。


荷田春満

(かだのあずままろ)は古語や古典の研究の大切さや、外来思想の排斥を説いた。門人 の

賀茂


真淵(

かものまぶち)は「万葉集」などの研究か ら古代人の生活や思想にたちもどることを主張した。


本居宣長

(もとおりのりなが)は、

「古事記」を綿密に実証的に研究して「古事記伝」を著述し 、中国の


国風や文化に心酔する「漢意」

(からごころ)をすて、日本古 来の精神に帰ることを主張した。


宣長の影響を受けた

平田篤胤

(ひらたあつたね)は、日本古来の純粋な信仰を尊ぶ復古神道を開き、儒


教や仏教を強く排斥した。国学は新しい学問であるだけに、自由な研究も行われ、批判精神も強かっ た


(洋学の発達)


西川如見

(にしかわじょけん)や新井白石(あらいはくせきが世界の地理物産民俗などを説いた。


さらに将軍吉宗は、漢訳洋書の輸入制限などをゆるめるとともに、

青木昆陽

(あおきこんよう)

野呂元


< p>(のろげんじょう)らにオランダ語を学ばせたので、洋学は蘭学(らんがく)として発達した。

< p>


実用の学問としていち早く

医学

1774(安永3)年

前野良沢

(まえのりょうたく)

< p>杉田玄白

(す


ぎたげんぱく)が西洋医学の解剖書を訳述した「

解体新書

(かいたいしんしょ)は、画期的な成果であ


った。


続いて

大槻玄沢

(お おつきげんたく)や宇田川玄随(うだがわげんずい)


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





蘭学は各分野で隆盛をみせ


玄沢の門人

稲村三伯

(いなむらさんぱく)は蘭日辞書の「ハルマ和解」を作った 。ほ


かには

平賀源内

(ひらがげんない )が長崎で学んだ科学の知識をもとに物理学の研究を進めた。


天文< /p>

では18世紀末に天文方の

高橋至時

(たかはしよしとき)に寛政暦 を作らせ


測地

では18世紀末から19世紀初めにかけ て

伊能忠敬

(いのうただたか)

に全国の沿岸を実測させ、

「大


日本沿海輿地図」を作成させた。


翻訳

では蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)を設け、洋書の翻訳にあたらせた。

< p>


19世紀前半になると、オランダ商館医であったドイツ人シーボルト

(シーボルト人物)が長崎郊外に


診療所と鳴滝塾をひらき、

< p>緒方洪庵

(おがたこうあん)は大坂に適塾をひらいて多くの人材を育成し、


西洋文化吸収の土台を作った。


しかし、洋学研究は、シーボ ルト事件や蛮社の獄などによって規制をうけ、その後医学兵学地理学など


実学としての 性格を強めた。


国学


国意考(賀茂真淵)


古事記伝(本居宣長)


群書類従(塙保己一)


洋学

?

その他


蔵志(ぞうし)

(山脇東洋)


華夷通商考(かいつうしょうこう)

(西川如見)


采覧異言(さいらんいげん)

(新井白石)


西洋紀聞(新井白石)


解体新書(前野良沢

?

杉田玄白)


赤蝦夷(あかえぞ)風説考(工藤平助)


三国通覧図説(林子平)


海国兵談(林子平)


蘭学階梯(かいてい)

(大槻玄沢)


西説(せいせつ)内科撰要(宇田川玄随)


ハルマ和解(稲村三伯)


暦象新書(れきしょうしんしょ)

(志筑忠雄)


舎密開宗(せいみかいそう)

(宇田川榕庵)


大日本沿海輿地図(伊能忠敬)


蘭学事始(ことはじめ)

(杉田玄白)


戊戌(ぼじゅつ)夢物語(高野長英)


慎機(しんき)論(渡辺崋山)


稽古談(けいこだん)

(海保青陵

)


自然真営道

(

安藤昌益

)


統道真伝(とうどうしんでん)

(安藤昌益

)


柳子新論(りゅうししんろん)

(

山形大弐

)


西域(せいいき)物語

(

本田利明

) < /p>


経世秘策(けいせいひさく)

(

本田利明

)


出定後語(しゅつじょうごご)

(富永仲基)


夢の代(しろ)

(山片蟠桃)


経済要録

(

佐藤信淵)


農政本論

(

佐藤信淵

)


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





弘道館記述義(藤田東湖)


新論

(

会沢安)


(儒学と教育)


18世紀後半には古学派や諸 学折衷の立場をとる

折衷学派

、さらに実証主義的な

考証学派

(こうしょう


がくは)

がさかんになった。

幕 府は現実を肯定する朱子学を重んじ、

寛政の改革では朱子学を正学とし、


官立の昌平坂学問所を設けた。18世紀末以降には、多くの藩でも藩士子弟の教育のために藩学が設立


されるようになった。そして城下町を離れた土地にも藩の援助を受けて藩士や民衆の教育をめ ざす郷学


(ごうがく)

*

7)が作られ るようになった。


民間

武士

?

学者

?

町人によって私塾が開かれ、儒学や国学

?

洋学などが講義されるようになった。


大坂の 懐徳堂(かいとくどう)は、大坂町人の出資で設立され、

中井竹山

(なかいちく ざん)を学頭と


して朱子学や陽明学を町人に授け、

富永仲基

< p>(とみながなかもと)や

山片蟠桃

(やまがたばんとう)ら

< br>の異色の学者をうみだした。


19世紀に設立された豊後日田の 咸宜園(かんぎえん)や萩の松下村塾(しょうかそんじゅく)も、幕


末の思想家や志士 を多く育てた。


庶民の初等教育機関の

寺子屋

(てらこや)はおびただしい数にのぼり読み書きそろばんなど日常生活に


役立つ 簡易な教育を行い、道徳も教えた。


女子の心得を説く書物なども出版 され、

女子教育

も進められた。


また1 8世紀初め、

石田梅岩

(いしだばいがん)は心学(しんがく)をおこし、儒教道 徳に仏教や神道


の教えを加味した生活倫理をやさしく説いた。


資料:藩学


設立地

藩校名

設立者

設立年


岡山

花畠教場

池田光政

1641


明倫館

毛利吉元

1719


仙台

養賢堂

1736


熊本

時習館

細川重賢

1755


鹿児島

造士館

島津重豪

1773


福岡

修猷館

1784


米沢

興譲館

上杉冶憲

1776


秋田

明徳館

佐竹義和

1789


会津

日新館

松平容頌

1799


庄内

致道館

1804


水戸

弘道館

徳川斉昭

1839


資料:私塾


設立地

私塾名

設立者

設立年


近江小川

藤樹書院

中江藤樹

1634


京都

古義堂

伊藤仁斎

1662


江戸

けん園塾

荻生徂徠

1709頃


大坂

懐徳堂

中井甃庵

1724


江戸

芝蘭堂

大槻玄沢

1788頃


豊後日田

咸宜園

広瀬淡窓

1817


大坂

洗心洞

大塩平八郎

1830頃


大坂

適塾

緒方洪庵

1838


長崎

鳴滝塾

シーボルト

1824


松下村塾

吉田松陰の叔父

1856


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





(政治

?

社会思想の発達)

< p>
17世紀後半から18世紀初めにかけて、

熊沢蕃山

(くまざわばん ざん)

荻生徂徠

(おぎゅうそらい)


太宰春台

< p>(だざいしゅんだい)らの儒学者らによって封建制を維持するための方策が説かれていたが、


18世紀半ばから封建制度を批判し、改めようとする意見があらわれてきた。


八戸の医者である

安藤昌益

(あんどうしょうえき)は、

「自然真営道」

(しぜんしんえいどう)をあらわ


して、みず から耕作して生活する自然の世を理想とし、武士が農民から収奪する社会や身分階級の社会

を否定し、封建制を批判した。


また

富永仲基

(とみながなかもと)山片蟠桃(やまがたばんとう)は合理主義の立場から、儒教仏教な

< p>
ど既成の教学に対して疑問の目を向けた。


都市や農村の 実情に触れている人々の中からも、封建制の維持または改良を説く現実的な形成思想が活


発になり、封建社会の矛盾をどのように打開していくかが論じられた。

海保青陵(

< p>かいほせいりょう)


は、商売をいやしめる武士の偏見を批判し、藩財政の再建は商 工業によらなければならないという説を


展開し、

本田利明

(ほんだとしあき)は西洋諸国との交易による富国策を説き

、佐藤信淵

(さと うのぶ


ひろ)は産業の国営化と貿易の振興とを主張した。

< p>
儒学のなかにある尊王思想は、

水戸学

などで主張された。


18世紀半ばに竹内式部(たけのうちしきぶ)は京都で公家たちに尊王論を説 いて追放刑となり(宝暦


事件(ほうれきじけん)

、山 形大弐(やまがただいに)は江戸で尊王論を説き、幕政の腐敗を攻撃し処


刑に処せられ た(明和事件)

。一般的に

尊王論

(そんのうろん)は、幕府を否 定するものではなく、朝廷


を尊ぶことで幕府の権威を守ろうとするものが多かった。復 古神道の立場から尊王論を唱えた国学者も


幕府政治を否定しなかったが、平田篤胤(ひ らたあつたね)の復古神道は幕末の尊皇攘夷論に影響を与


え、現実の政治運動と結びつ きを強めていった。


(化政美術)

< br>この時代の絵画は庶民に広く親しまれた

浮世絵

が中心で、18世紀半ばに でた

鈴木春信

(すずきはるの


ぶ)は錦絵(にしきえ)と 呼ばれる多色刷の浮世絵版画を創始し、浮世絵の黄金時代を開いた。


多くの美人画を描いた

喜多川歌麿

(きたがわうたまろ)

個性豊かに役者絵相撲絵を描いた

東洲斎写楽

(と


うしゅうさいしゃらく)が、大首絵の手法を駆使して優れた作品を生み出し、民衆に喜ばれた。その後


葛飾北斎(

かつしかほくさい)

安藤広重

(あん どうひろしげ)らの錦絵が、民衆の旅への関心と結びつ


いて歓迎された。


従来の絵画

では、丸山応挙(まるやまおうきょ)にはじまる

丸山派

が写生を重んじ、遠近法をとりいれ


た立体感のある作品 を描いた。丸山派からわかれ呉春(ごしゅん)

(呉春人物)がはじめた

四条派

は、


上方の豪商らに歓迎された。


文人画

池大雅

(いけのたいが)や与謝蕪村 (よさぶそん)がこの画風を大成し、豊後の

田能村竹田

(た

のむらちくでん)

、江戸の

谷文晁

(たにぶんちょう)とその 門人の

渡辺崋山

(わたなべかざん)らの出現


によって全 盛期を迎えた。池大雅と与謝蕪村の合作の「十便十宜図」は特に有名。


西洋画

も蘭学の隆盛によって復活し、平賀源内(ひらがげんない)司馬江漢(しばこうかん)

亜欧堂田


善(あおうどうでんぜん)


浮世絵


弾琴美人

?

ささやき(鈴木春信)


婦女人相十品(喜多川歌麿)


市川蝦蔵(東洲斎写楽)


富嶽三十六景(葛飾北斎)


東海道五十三次(安藤広重)


文人画


十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)

(池大雅

?

与謝蕪村)


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





鷹見泉石(たかみせんせき)像(渡辺崋山)


一掃百態(いっそうひゃくたい)

(

渡辺崋山)


写生画


雪松図屏風(丸山応挙)


保津川図屏風(丸山応挙)


柳鷺群禽図(りゅうろぐんきんず)屏風(呉春)



洋風画


不忍池(しのばずのいけ)図(司馬江漢)


浅間山図屏風(亜欧堂田善


(生活と信仰)


江戸中心の庶民文化の発展に よって

都市文化

が開花した。都市には芝居小屋、見世物小屋、講談

?

落語

?


曲芸などを演じる寄席(よせ)があり、銭湯 や髪結床も庶民の娯楽場となっていた。寺社は修繕費や経


営費を得るために、縁日(え んにち)や開帳(かいちょう)富突(富くじ)などをもよおした。


庶 民の旅も広く行われるようになり、伊勢神宮

善光寺

金毘羅宮などへの寺社参詣(じしゃさんけい)


もさかんになった。多数の民衆が 伊勢神宮に参詣する御蔭参り(おかげまいり)も江戸時代を通じて数


回おこった。


文明開化


富国強兵を目指してい た政府は、文化や国民生活の近代化を促進する必要から、西洋の近代思想や生活


様式な どを積極的に取り入れようとしていた。明治初期の新しい世相ともなり、民間におけるジャーナ


リズムなどを通して啓蒙運動をうながした。この風潮は文明開化(ぶんめいかいか)とよばれた。


思想面

では、

今までの儒教

?

神道による考え方や古い習慣が時代遅れとして排斥され、

かわって自由主義< /p>

?


個人主義などに近代思想が流行し、天賦人権(てんぷじんけん)の思想 が唱えられた。

福沢諭吉(ふく


ざわゆきち)

)の「西洋 事情」

「学問のスヽメ」

「文明論之概略」

中村 正直(なかむらまさなお)訳の「西


国立志編」

(さいごくりっしへん)

「自由之理」などが、

新思想の啓蒙書

としてさかんに読まれ、国 民の


思想を転換させるうえに大きな働きをした。


教育の面


1871(明治4 )年の文部省(もんぶしょう)の新設にされ、翌年にはフランスの学区制などをとり


い れた統一的な

学制

(がくせい)が公布された。特に

小学校教育< /p>

の普及に力をいれ、男女等しく学ばせ


る国民教育の建設を目指した。

専門教育

にも力をいれ、1877(明治10)年には東京大学(とうき


ょうだいがく)を設立し、多くの外国人教師をまねいて各種学術の発達をはかった。


教育は主として政府の力で進められたが、福沢諭吉の慶応義塾(けいおうぎじゅく)< /p>

新島襄(にいじ


まじょう)

< p>(新島襄人物)の同志社(どうししゃ)などの私学も創設され、特色ある学風を発揮した。


宗教界

にも大きな変動を引き起こし、1868(明治元)年には神道( しんとう)を国教とする方針を


打ち出した(

神仏分離令

(しんぶつぶんりれい)

。そのため全国的に一時廃仏毀釈(はいぶつきしゃく )


の嵐が吹き荒れた。政府はさらに神道国教化をめざして1870(明治3)年大教宣 布(だいきょうせ


んぷ)を行い、神社制度祝祭日などを制定した。

< /p>


新聞

?

雑誌

は明治になると旧幕臣が発行す るようになり、活字印刷の発達に助けられ、東京を中心に日刊


新聞や雑誌が続々と発行 された。新聞雑誌は報道のほかに政治問題の評論を行い、新しい言論活動が行


われた。 また、

森有礼(もりありのり)

福沢諭吉

西周(にしあまね)加藤弘之(かとうひろゆき)西


村茂樹

( にしむらしげき)

の洋学者が、

1873

(明治 6)

年明六社

(めいろくしゃ)

を組織して、

「明


六雑誌」を発行した。


1872

(明治5)年12月には

太陽暦

(たいようれき)を採用し、1日を24時間と し日曜日を休日


とするなど長い間の行事や習慣が改められた。


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





また洋服の着用が軍人や官吏からしだいに民間に広まっていき、ざん ぎり頭(ざんぎりあたま)が新風


俗の代表のようにみられた。


近代文化の発達


(明治の文化)


明治期の文化の特徴は、江戸 時代の文化を受け継ぐとともに欧米からの文化を幅広く取り入れて新しい


文化を築いた ことにある。さらに明治の中ごろになると、教育の普及や交通

?

通信

< p>?

出版などの著しい発


達によって、近代的文化の発展をみることと なった。



(思想と信教)


明治10年代後半になると朝鮮問題を機に、民権論者の中にも

国権論(

こっけんろん)を唱えるものも


あらわれた。


平民的欧化主義

を唱える

徳富蘇峰

(とくとみそほ う)らと、

近代的民族主義

を主張する

三宅雪嶺

( みや


けせつれい)

志賀重昂

(しがしげたか)

< p>陸羯南

(くがかつなん)らとの間で論争がくりひろげられた。

< p>
日清戦争は思想界の動向にも大きな変化を与えた。蘇峰は開戦と同時に日本の対外膨張の必要を説 き、


高山樗牛

(たかやまちょぎゅう)も

日本主義

を唱えて日本の大陸進出を肯定した。社会主義者と一部の


キリスト教徒たちが 、これらの思想傾向に反対していたが、日本の対外膨張をささえるための

国家主義


(こっかしゅぎ)は日露戦争以前の思想界の主流となっていた。

< br>しかし、日露戦争後になると国家主義に対する疑問が生まれてきた。このような傾向に対して政府は、< /p>


1908(明治41)年戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を発して、国民道徳の強化と地方 社会の共同体


的秩序の再編につとめた。


信教 の世界でも伝統的な神道や仏教と西洋から流入したキリスト教との対

?

競合が見 られた。民間の教派


神道(きょうはしんとう)が庶民の間に浸透しはじめ、廃仏毀釈の 影響をうけた仏教も西洋の自由信仰


論をとりいれた島地黙雷(しまじもくらい)

らの努力で立ち直っていった。


(教育の普及)


学制によって義務教育の就学 率はしだいに高まっていったが、地方の実情を無視した画一的な強制に対


する反動から 、

1879

(明治12)年には学制を廃して教育令(きょういくれい)があらた に公布さ


れた。教育令では画一的な学区区分を廃して町村を小学校の設置単位とし、最 低就学期間も大幅に短縮


した。しかし、翌年にははやくも改正されることとなり、教育 に対する政府の監督責任が強調された。


これらの試行錯誤を経て、

18 86

(明治19)年

森有礼

(もりありのり)

< /p>

(森有礼人物)文部大臣の


もとでいわゆる学校令(がっこうれい)が公布 され、学校間の体系が整備された。

1890(明治23)


年には尋常小 学校3~4年間の義務教育が明確化され、1907(明治40)年にはそれが6年間に延


長され、国民教育はしだいに発達していった。


これと同時に

1890

(明治23)年に発布された教育に関する勅語(教育勅語)によって、

忠君愛国


が教育の基本であることが強調された。

< p>
また

1903

(明治36)年に教科書を国定とすることが定められ (

国定教科書

、教育に対する国家の


統 制が強まった。


一方民間では、慶応義塾

?

< p>同志社に続いて、大隈重信(おおくましげのぶ)の東京専門学校(現、早稲田


大学 )などの私立学校が発達し、独自の学風を作り出した。


(科学の発達)


近代的な学問の研究は欧米か ら多くの専門学者を招いていたが、やがて日本の学者の手で各分野の専門


研究

?

教育ができるようになり、専門的な各種の学会(がっかい)もうまれ、学術雑誌も刊行 されて今日


の学会のもとが築かれた。



医学


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





北里柴三郎

細菌学の研究(破傷風血清療法、ペスト菌発見)


伝染病研究所創設


志賀潔

赤痢菌の発見


薬学

高峰譲吉

?ドレナリンの発見


タカジ?スターゼの創製


鈴木梅太郎

オリザニンの創製


秦佐八郎

サルバルサンの創製


地震学

大森房吉

大森式地震計の発明


天文学

木村栄

緯度変化のZ項の発見


地理学

長岡半平太

原子構造の研究


田中館愛橘

地磁気の測定


植物学

牧野富太郎

植物の分類法



主な在日外国人と業績


宗教

ヘボン(米)

伝道

?

医療

?

語学


フルベッキ(米)

伝道

?

語学


ジェーンズ(米)

伝道

?

語学


教育

クラーク(米)

札幌農学校


自然

モース(米)

動物学

?

考古学


科学

ナウマン(独)

地質学


ミルン(英)

地震学


医学

ベルツ(独)

東京医学高→帝大


ホフマン(独)

医学


文芸

フェノロサ(米)

哲学

?

古美術


ケーベル(露)

ドイツ哲学


美術

ラグーザ(伊)

彫刻


フォンタネージ(伊)

洋画


ワーグマン(英)

洋画


キヨソネ(伊)

銅版画


建築

コンドル(英)

建築


(ジャーナリズムと近代文学)


1880年代 から90年代にかけて、新聞が相次いで創刊されることとなった。

新聞はそれぞれ独自の


政治的主張を持ち国民の政治思想の浸透に大きな役割を果たすとともに、近代文学の育成と普 及にも貢


献した。雑誌も本格的に発達することとなり、1880年代後半には「国民之 友」や「日本人」が創刊


された。1890年代後半には「太陽」や「中央公論」などの 総合雑誌も創刊され、新聞とは違った形


で国民文化の発達に貢献した。文学では戯作文 学が復活してきて、民権論

?

国権論

?

?ジ?主義 などの隆


盛に呼応した政治小説が広い人気を博した。



これらに対して

坪内逍遥(

つ ぼうちしょうよう)は、

人間の内面を写実的に描きだそうと、1885

(明


治18)年に「小説神髄」

(しょうせつしんずい)を刊行した。言文一致体 (げんぶんいっちたい)で書


かれた

二葉亭四迷

(ふたば ていしめい)

「浮雲」

(うきぐも)は逍遥の提唱を文学作品として結実させた< /p>


ものであった。また

尾崎紅葉

(おざきこうよう)らの

硯友社

(けんゆうしゃ)は文芸小説の大衆化を進


めた。

幸田露伴

(こうだろはん)は逍遥の内面尊重を受け継ぎ、東洋的な観念を主題とする 作品をあら


わした。


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





日清戦争の前後になると

北村透谷< /p>

(きたむらとうこく)

らの

文学界」

(ぶんがくかい)

を中心として、


人間の感情面を重んじる

< p>ロマン主義

文学がさかんになった。


小説では

樋口一葉

(ひぐちいちよう)

森鴎外

(もりおうがい)

)らもすぐれた作品を発表詩歌の分野でも


島崎藤村

(し まざきとうそん)の新体詩や明星派の

与謝野晶子

(よさのあきこ)の情熱的な短 歌があら


われた。


正岡子規

(まさおかしき)

(正岡子規人物)は俳句の革新と万葉調和歌の復興を行った

< br>ロマン主義とならんで、

徳富蘆花

(とくとみろか)による社会的題材をあ つかった小説も登場した。日


露戦争の前後になると、人間社会の暗い現実の姿をありに ままにうつしだそうとする

自然主義

(しぜん


しゅぎ)が 文壇の主流となり、

国木田独歩

(くにきだどっぽ)田山花袋(たやまかたい)島 崎藤村


田秋声(とくだしゅうせい)らの作家があら われた。詩人石川啄木(いしかわたくぼく)も社会主義思


想をもりこんだ生活詩をうた いあげている。


自然主義とは異なり、知識人の内面生活を国家

?

社会との関係でとらえる

夏目漱石

(なつめそうせき) ら


の作品もあらわれてきた。


また

< p>有島武郎

(ありしまたけお)

志賀直哉

(しがなおや)

武者小路実篤

(むしゃのこうじさねあつ)ら


が創刊した

「白樺」

(しらかば)

平塚らいてう

( ひらつからいてう)が創刊した「青鞜」

(せいとう)な


どの雑誌が、こ の時期の新しい文化を代表していた。


資料:

主な文学作品


仮名垣魯文

安愚楽鍋


矢野竜渓

経国美談


東海散士

佳人之奇遇


末広鉄腸

雪中梅


坪内逍遥

小説神髄


二葉亭四迷

浮雲

あひびき


山田美妙

夏木立


尾崎紅葉

金色夜叉


幸田露伴

五重塔


樋口一葉

にごりえ

たけくらべ


森鴎外

舞姫

即興詩人


島崎藤村

若菜集

破戒


与謝野晶子

みだれ髪


高山樗牛

滝口入道


土井晩翠

天地有情


泉鏡花

高野聖


徳富蘆花

不如帰

自然と人生


国木田独歩

牛肉と馬鈴薯

武蔵野


田山花袋

蒲団

田舎教師


正宗白鳥

何処へ


徳田秋声

あらくれ


石川啄木

一握の砂

時代閉塞の現状


悲しき玩具


夏目漱石

吾輩は猫である

坊ちゃん


草枕


長塚節


正岡子規

病牀六尺)


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





上田敏

海潮音


(明治の芸術)


演劇では歌 舞伎(かぶき)が民衆に親しまれていた。明治の初めには

河竹黙阿弥

(かわたけ もくあみ)


が新作を発表したが、その後名優が現れていわゆる

団菊左時 代

(だんきくざじだい)を現出し、社会的


地位も向上した。

< p>


また、日清戦争の頃になると

新派劇(

しんはげき )という現代劇もはじまり、演劇が民衆の娯楽として


重要な存在となった。日露戦争後 には坪内逍遥の文芸協会や小山内薫(おさないかおる)の自由劇場な


どによって、西洋 の近代劇の翻訳物も上演された。


音楽

では

< p>伊沢修二

(いざわしゅうじ)らの努力によって小学校教育に西洋の歌謡を模倣した唱歌(し ょ


うか)が採用された。

1887(明治20)年に東京音楽学校

(とうきょうおんがくがっこう)が設立


されて専門的な音楽教育が始まり、< /p>

滝廉太郎

(たきれんたろう)らの作曲家があらわれた。伝統的な能


楽(のうがく)は明治中期から復活して、民間に広まった。


美術

では、

はじめ工部美術学校がひらかれ外国人教師により西洋美術が教えられ てきたが、

1887

(明


治20)年には西洋美術を除外 した

東京美術学校

(とうきょうびじゅつがっこう)が設立された。こう


して?メリカ人

フェノロサ

岡倉天心

< p>(おかくらてんしん)らの影響のもとで

狩野芳崖

(かのうほうが

< p>
い)橋本雅邦(はしもとがほうらにより、優れた

日本画

(にほんが )が創作された。


このため

西洋画

(せ いようが)は一時衰退したが、

浅井忠

(あさいちゅうらによる日本で初めての西 洋


美術団体である

明治美術会

(めいじびじゅつかい)< /p>

の結成やフランス印象派の画風を学んだ

黒田清輝

(く


ろだせいき)らの帰国によってしだいにさかんになり、

1896(明治29)年黒田 らは白馬会(はく


ばかい)を創立した。


いっ ぽう伝統美術も岡倉天心らの日本美術院(にほんびじゅついん)を中心に発展し、

1907(明 治


40)年になると文部省美術展覧会(文展)の開設によって

、伝統美 術と西洋武術は共通の発表の場を


持つに至り、両者は共栄をはかるようになった。


彫刻

では伝統的な木彫(もくちょう)と西洋の彫塑(ちょ うそ)とが対立競合しながら発達したが、絵


画と同じく文展の開設によって共存の方向 へ向かった。


資料:

主な建築

?

美術作品


絵画


悲母観音(ひぼかんのん)

(狩野芳崖)


鮭(さけ)

(高橋由一)


収穫(浅井忠)


湖畔(こはん)

?

読書(黒田清輝)


竜虎図(りゅうこず)

(橋本雅邦)


南風(なんぷう)

(和田三造)


天平の面影(おもかげ)

(藤島武二)


海の幸(青木繁)


落葉(らくよう)

?

黒き猫(菱田春草)


渡島(ととう)の夕暮(和田英作)


夜汽車(赤松麟作)


無我(横山大観)


大原御幸(ごこう)

(下村観山)


建築


ニコライ堂(コンドル)


日本銀行本店(辰野金吾)


赤坂離宮(現

?

迎賓館)

(片山東熊)


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





彫刻


老猿(ろうえん)

(高村光雲)


ゆあみ(新海竹太郎)


坑夫

?

女(荻原守衛)


墓守(朝倉文夫)


(生活様式の近代化)


東京などの大都市では 官庁会社学校軍隊などが、実用のうえから西洋画の生活様式を採用した。

明治2


0年代には電灯が郵便局などの公共施設で実用化された。

交通機関としては明治初年の 鉄道開通に続い


て、1880年代には鉄道馬車が走り、90年代になると京都にも電車 が開通した。こうして人々の生


活は日本風と西洋風がいりまじった様式になり、国民生 活が近代化されるようになった。しかし、地方


の農漁村では交通

?

通信の不便などから、生活様式はあまり変らず、暦法などでも農作業の関係から、太


陽暦とならんで以前の旧暦が用いられた。







育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班







育明教育·

2014

年考研复习宏观规划·仅供参考


复习


时间


进度


内容


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





2013

1

月或更早


准备


-2013

3


阶段



2012

4

-6



育明教育课程:

2013

年考研专业课视频


授课内容:

< br>1.

明确考试重点,建


立学科框架


2.

考试参考书框架性


预热


阶段


记忆

< br>2013

7

-8


育明教育课程:

专业


课基础班


授课内容:


1.

明确专业课具 体的


最新变化考点,

落实


原考点


2.

掌握背诵方法,开


始记忆


制定一个全面复习计划,开始第二轮复习。开始重点复习政治,重点进行英语真


2013

8

-10

< p>月


题的分析和政治基础的强化。此外,掌握专业课复习重点和复习 方法。专业课复



习得进度一般为每天

50

页以上。采用“车轮复习法”。


育明教育课程:

强化


发力



阶段


授课内容:


2.

政治,背诵重 要原理,理解知识点。育明教育咨询师认为,政治需要强化记忆


夯实必考点,

< p>进一步


的考点只有三个地方:“矛盾论”“认识论”“科学发展观和和谐社会”其他 的


筛选重要的考点


知识点只需要理解和熟悉就 可以,这样足够达到

70

分以上。如果技巧掌握的好,


1 .

专业课明确辅导老师总结的要点并记忆。


具体来说:


全面关注考研公共课的考试大纲, 购买最新的辅导用书,准备暑期复习。同时,


重视英语单词的记忆和真题的分析。英语复 习要运用“真题复习法”。


具体来说:


开始复习政治,通过育明教育政治辅导班或者一对一,对考研政治有一个大体的


了解。


做考研英语真题,从

2001

年开始。逐步掌握做题方法,了解出题规律。


专业课,掌握参考书的重要章节的框架。


第一 轮复习:可以报一个基础班,包括育明教育专业课辅导班,不要急于做模拟


试题,不要急 于盲目复习,要着重于基础的复习和方法的掌握。



具体来说:


英语单词要过三遍左右,以单词为 主。专业课书起码把最重要的几本书看一遍。


在育明教育咨询师和辅导老师的帮助下,建 立学科框架,了解考试重点。


了解所报专业的信息,准备复习。


搜集考研信 息,确定考研目标,听考研形势的讲座。考研应如何选择专业,全面


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





有可能冲刺

80

分。


后期育明教育有历年公共课阅卷老师,可以给大家进行一对一的点评和分析。如


果有需要的话可以电话

400-6998-626

进行预约。


3.

英语,继续真题的分析

,

同时可以保持朗读记忆真题中的文章,这也是培养对考


研英语语感的重要方法。


关注各招生单位的招生简章和专业计划,核对专业辅导用书,获取专业课考试 信


2013

8-9


息。(育明教育提供相关参考)


1.

确定十一黄金周复习计划,对前两个阶段的复习进行总结、梳理、查缺补漏。


同时 ,进一步加强专业课的复习。


2013

10


2

.研究生报名

:9

月底应届生预报名,

10

月全体考生报名,谨慎填报,牢记报名


信息。

< p>


2013

11

月前后

研究生考试报名工作确认开始,考生到指定的地点进行现场确认,缴费并照相。


第三轮复习:政治、专业课的进入冲刺复习。


2013

11

-12

月初


具体来说:


育明教育课程:

冲刺


专业课重要考点必须全部记住并理解,并开始模拟考试。



政治所有知识点必须记住,并开始分析真题


授课内容:


英语,单词熟练掌握,每一道真题 分析清楚,每一篇文章没有不认识的单词,不


加强记忆


理解的句子,不明白的段落。英语作文,通过育明教育咨询师(考研英语阅卷老


练习答题方法


冲刺


阶段


师)的讲解,争取达到

2 5

分以上(两篇作文总分

30

分)。

< p>
进行模拟实训,查缺补漏,联系答题方法和应试心态,做考前整理。这个时期,

专业课尤其需要模拟,往年考生在这个地方存在误区。


具体来说:


2013

12

-2014


1

11

月末

12

月初,模拟一套历年真题,主要是检查之前复 习效果。


1

月初

< /p>


2

12

月初,再次模拟真题,通过育明教 育咨询师讲解,掌握答题方法和技巧。


3

.政治和英语 ,也需要进行全真模拟。将考场上可能出现的问题,在考前全部


解决。


初试


2014

1


阶段


调整心态,准备考试。熟悉考试环境。


育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班





复试


调剂


阶段


录取


报到


阶段


2014

9

报到


2014

6

-7

关注录取通知书


2014

< p>2

-5

查询成绩、关注复习情况,参加育明教育考研复试辅导班,联系导师。






育明教育官网


北大、人大、中财、北外

、中传教授创办

集训营、一对一保分、视频、小班



大学杨浩-大学杨浩


内蒙古医科大学官网-内蒙古医科大学官网


辽宁省二本大学-辽宁省二本大学


武汉工程大学贴吧-武汉工程大学贴吧


大学四书-大学四书


同济大学招生办-同济大学招生办


四川大学计算机研究生-四川大学计算机研究生


大学如何恋爱-大学如何恋爱



本文更新与2020-11-25 07:10,由作者提供,不代表本网站立场,转载请注明出处:https://bjmy2z.cn/daxue/4817.html

2014年北京外国语大学日研中心日语语言文学考研辅导讲义之日本文化部分的相关文章